さかのぼり前漢情勢18

もう最初の頃の話を忘れてるhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100221/1266718011の続き。


漢の昭帝は武帝の末子であり、八歳にしていきなり皇帝の座に就いた。
もちろん自分で政務を執ることなどできない。

そこで生まれたのが領尚書事であったと思われる。
つまり、これまで述べたように上奏文を先に検閲し、時に却下することで、皇帝が行うべき決裁を事実上代行し、皇帝はただ裁可するだけにできる。


これだけの大権を霍光は一人で握っていたわけだが、これは最初からそうだったわけではない。

最初は、左将軍上官桀と車騎将軍金日磾が補佐となり、三頭体制であった。
金日磾がすぐに死んでしまったために霍光と上官桀の二頭になったが、二人は姻戚関係にもあることから、領尚書事の権限も二人で行使していたようである。

初、(上官)桀子安取霍光女、結婚相親、光每休沐出、桀常代光入決事。
(『漢書』上官皇后伝)

霍光が休暇を取る時は上官桀が代わりに決裁、おそらくは尚書の検閲を行ったというのである。
そして、この二人は子供同士が結婚しているという関係であり、二頭体制とはいえ足並みは揃っていた。


だが、上官桀の孫にして霍光の孫でもある女子上官氏を、昭帝の皇后にしようとしたことから両者に亀裂が生じた。

外戚となった上官桀と、昭帝の摂政筆頭である霍光の間には緊張が生まれ、上官桀は対抗するために武帝時代からの大臣である御史大夫桑弘羊、および帝位への野望を捨てない昭帝の兄、燕王旦に接近したのである。

燕王旦が野望を果たせば上官桀が擁している昭帝が排除されることになると思うのだが、このあたりの事情は良く分からない。


ともあれ、上官桀、桑弘羊、燕王旦は内外で呼応して霍光を除くことにした。一種のクーデターである。

燕王旦自以昭帝兄、常懷怨望。及御史大夫桑弘羊建造酒榷鹽鐵、為國興利、伐其功、欲為子弟得官、亦怨恨光。於是蓋主・上官桀・安及弘羊皆與燕王旦通謀、詐令人為燕王上書、言「光出都肄郎羽林、道上稱蹕、太官先置。又引蘇武前使匈奴、拘留二十年不降、還乃為典屬國、而大將軍長史敞亡功為搜粟都尉。又擅調益莫府校尉。光專權自恣、疑有非常。臣旦願歸符璽、入宿衛、察姦臣變」候司光出沐日奏之。桀欲從中下其事、桑弘羊當與諸大臣共執退光。書奏、帝不肯下。
明旦、光聞之、止畫室中不入。上問「大將軍安在?」左將軍桀對曰「以燕王告其罪、故不敢入」有詔召大將軍。光入、免冠頓首謝、上曰「將軍冠。朕知是書詐也、將軍亡罪」光曰「陛下何以知之?」上曰「將軍之廣明、都郎屬耳。調校尉以來未能十日、燕王何以得知之?且將軍為非、不須校尉」是時帝年十四、尚書左右皆驚、而上書者果亡、捕之甚急。桀等懼、白上小事不足遂、上不聽。
(『漢書』霍光伝)

上官桀らは燕王旦の名で霍光の僭上や専横を訴えて追い落としを図ったが、昭帝が偽りを見抜いて裁可しなかったために失敗した。
霍光排除が成功すれば次は昭帝が排除される番である。少年皇帝昭帝はそれを分かっていたのだろう。

後桀黨與有譖光者、上輒怒曰「大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身、敢有毀者坐之」自是桀等不敢復言、乃謀令長公主置酒請光、伏兵格殺之、因廢帝、迎立燕王為天子。事發覺、光盡誅桀・安・弘羊・外人宗族。燕王・蓋主皆自殺。光威震海內。昭帝既冠、遂委任光、訖十三年、百姓充實、四夷賓服。
(『漢書』霍光伝)

かくして、上官桀、桑弘羊、燕王旦らは霍光の反撃にあっていずれも処刑または自殺した。
霍光は昭帝より政務を委任され、十分な成果を上げたという。


これがこの時代の大事件「燕王旦の乱」の概略だが、ここで敢えて影の薄かった部分にも注目してみよう。

丞相である。
この政局において丞相は一体何をしていたのか。

続く。