さかのぼり前漢情勢17

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放蕩者劉病已こと宣帝を皇帝に選んだのは当時の大臣達、特に大司馬大将軍領尚書事の霍光であった。

彼は武帝死後からずっとこの地位に就き、年若き昭帝の摂政として君臨し続けていた。
しかし昭帝が後継ぎを残さず早死にし、漢帝国は後継者無しという緊急事態に直面したのである。

昭帝には兄がいた。
当時生存していたのは広陵王劉胥のみ。鼎を持ち上げる怪力の持ち主だが粗暴であったと言われている。
子孫を残している兄は三人。

長兄戻太子劉拠の孫劉病已。
燕王劉旦の子供たち。
昌邑王劉髆の子で今の昌邑王劉賀。

しかし戻太子と燕王は謀反により死んだ身であり、避けるべきところである。
広陵王は謀反人燕王と通じていたと思われ、霍光とは良好な関係とは言えない。
大臣たちは生存する広陵王を推す者が多かったようだが、霍光としては火中の栗を拾うようなものである。

そうなると、武帝の孫、昭帝の甥という関係になる昌邑王劉賀が消去法で残ることになる。


ということで、霍光の鶴の一声で昌邑王が選ばれた。


しかしながら彼はくせ者であった。

王受皇帝璽綬、襲尊號、即位二十七日、行淫亂。大將軍光與群臣議、白孝昭皇后、廢賀歸故國、賜湯沐邑二千戶、故王家財物皆與賀。
(『漢書』昌邑王賀伝)

昌邑王は即位二十七日にして「淫乱」の行いを理由に廃位されたのである。

昌邑群臣坐亡輔導之誼、陷王於惡、(霍)光悉誅殺二百餘人。出死、號呼巿中曰「當斷不斷、反受其亂」
(『漢書』霍光伝)

これは研究者西嶋定生氏などが指摘していたように、「断行すべきことを断行しなかったから反撃を受けてしまった」との昌邑王の臣下の言葉がすべてを物語るのだろう。
つまり昌邑王とその側近は霍光排除を狙ったが、まごまごしているうちに霍光が逆襲に出たということである。


実際、この時の霍光は追い詰められており、廃位は最終手段であった。

賀者、武帝孫、昌邑哀王子也。既至、即位、行淫亂。光憂懣、獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰「將軍為國柱石、審此人不可、何不建白太后、更選賢而立之?」光曰「今欲如是、於古嘗有此否?」延年曰「伊尹相殷、廢太甲以安宗廟、後世稱其忠。將軍若能行此、亦漢之伊尹也」
光乃引延年給事中、陰與車騎將軍張安世圖計、遂召丞相・御史・將軍・列侯・中二千石・大夫・博士會議未央宮。
光曰「昌邑王行昏亂、恐危社稷、如何?」
群臣皆驚鄂失色、莫敢發言、但唯唯而已。
田延年前、離席按劍曰「先帝屬將軍以幼孤、寄將軍以天下、以將軍忠賢能安劉氏也、今群下鼎沸、社稷將傾、且漢之傳諡常為孝者、以長有天下、令宗廟血食也。如令漢家絕祀、將軍雖死、何面目見先帝於地下乎?今日之議、不得旋踵。群臣後應者、臣請劍斬之」
光謝曰「九卿責光是也。天下匈匈不安、光當受難」
於是議者皆叩頭曰「萬姓之命在於將軍、唯大將軍令」
(『漢書』霍光伝)

帝太甲既立三年、不明、暴虐、不遵湯法、亂紱、於是伊尹放之於桐宮。
(『史記』殷本紀)

霍光は腹心の田延年より殷の伊尹による天子追放の前例を教えられ、これを根拠に昌邑王廃位を進めることとした。
しかし、なにしろ昌邑王擁立を強引に進めたのも霍光なのである。
群臣の反対を退け、電光石火で事を終わらせるには、腹心田延年に「従わぬ者は斬る」と言わせるしかなかった。
ちなみに後漢末に董卓が少帝を廃して献帝を立てる時にこの霍光と田延年の故事が引用されている。


つまり霍光は緊急事態を理由に力づくで強引に廃立を進めた
のである。
そうでもなければそうそう廃立など行われるものでもないが。

それが出来るのは、当時の丞相や九卿の多くをことなかれ主義者か自分のシンパで固めた体制と、昭帝の皇后にして今や皇太后となった上官氏が霍光の孫娘であったからであろう。
そのあたりについては次回以降語ると思う。


しかしこの強引な廃立劇が群臣の反感を買ったことも想像に難くない。
文帝即位のため少帝弘を廃位した時と違い、朝廷の総意としてなされたものとは言いがたいからだ。
息子の代に霍氏全滅まで追い込まれる遠因と言えるのではないだろうか。


そして、ついに霍光から見た適格者がいなくなったことで、朝廷ナンバーツーの実力者である車騎将軍張安世とつながりが強い劉病已を皇帝に選ぶしかなくなったことも、霍光にとってはマイナスであっただろう。
その後の朝廷において張安世一族の比重が高まるということであり、それは霍光一派の比重が低くなるということであるのだから。


昭帝時代だけなら幼帝を謀反人から守った忠義の摂政と呼べないこともないのだろうが、昭帝を失ってからの霍光は自分の権力保持のために強引な手段を取る権臣と言われても仕方のないところだろう。