さかのぼり前漢情勢16

どこで終わらせるか迷い始めてるhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100218/1266422925の続き。


漢の宣帝は賞罰を使いこなした独裁君主であり、同時に庶民感覚を備えていた。それゆえに明君たりえた。


このハイブリッドが彼の出生以来の激動の人生に由来することを知る人は多いと思うが、今回は敢えてそこを取り上げてみる。

宣帝こと劉病已は漢の武帝の曾孫である。
祖父は武帝の皇太子であった戻太子劉拠。
父は戻太子の子の史皇孫劉進。
しかし戻太子は反乱を起こして長安に血の海を作り、最後は反乱者として死んだ。もちろん史皇孫や他の家族も連座である。

生まれたばかりの劉病已も投獄され、処刑されそうになったこともあった。
そこを丙吉という官僚に助けられて生き延び、釈放されると丙吉の手引きで祖母(史皇孫の母)の実家である史氏の元へ送られ、そこで保護される事となった。
この頃劉病已は数えで五歳くらい。おそらく、成長した彼は自分が獄内で育ったことを記憶していたのではないだろうか。


だがその後、勅命が下り彼は正式に皇族として認められ、掖庭が養育することとなった。掖庭とは後宮である。まだ幼児なので、おそらくは皇帝の幼児と同様に後宮で育てられたということなのだろう。

この時に掖庭令だったのが張湯の子、張賀であった。彼は戻太子に仕えていたためあの反乱で処刑されるところだったが宮刑で済んでいた。
これが運命の出会いだったのか、それとも掖庭令張賀の方が彼を養育しようと働きかけたものだったのか不明だが、とにかく祖父戻太子の忠臣張賀は命令以上に彼の養育を進めた。
私費で『詩経』を学ばせたりしたといい、宣帝が後に儒者の良い面も悪い面も熟知していたのはこの辺に理由があると思われる。


先に自分は「庶民感覚」と言ったが、実のところ物心ついてからは後宮で養育され、高位の宦官が実親並に熱心なパトロンになっていた。決して彼の生活は「庶民的」ではなかった。
この時代に彼の友人だったことが記される人間も、張彭祖(車騎将軍張安世の子)、杜佗(太僕杜延年の子)、関内侯の王奉光といった当時のセレブである。
更に言うと、張彭祖と杜佗の父は共に当時の朝廷を牛耳る霍光の同調者である。実は丙吉もあの後霍光の幕下にいた。
昭帝を擁して天下を治める霍光とその一派が、世間を乱す存在になりかねない劉病已を手元に置いて監視するというのが「後宮で養育せよ」という勅命の真相であろう。


十代の劉病已は、後宮や張賀や祖母の実家、妻の実家から金が出てくる高等遊民であった。

既壯、為取暴室嗇夫許廣漢女、曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏。受詩於東海澓中翁、高材好學、然亦喜游侠、闘雞走馬、具知閭里奸邪、吏治得失。數上下諸陵、周偏三輔、常困於蓮勺鹵中。尤樂杜・鄠之間、率常在下杜。時會朝請、舍長安尚冠里、身足下有毛、臥居數有光燿。毎買餅、所從買家輒大讎、亦以是自怪。
(『漢書』宣帝紀

「闘鶏走馬」を好み、游侠のまねごとをやり、どんなことがあったのか分からないが嫌な目にもあったらしい。

陳遵字孟公、杜陵人也。祖父遂、字長子、宣帝微時與有故、相隨博弈、數負進。及宣帝即位、用遂、稍遷至太原太守、乃賜遂璽書曰「制詔太原太守、官尊祿厚、可以償博進矣。妻君寧時在旁、知狀」遂於是辭謝、因曰「事在元平元年赦令前」其見厚如此。
(『漢書』陳遵伝)

このように、彼はバクチもたしなんだ。負けた相手陳遂を後に厚遇し、それでバクチの負債を帳消しにしたというのである。


ここで終わったら若くして不労所得ばかりだとロクな人間にならないという見本のような存在だが、転機が訪れる。

昭帝が死去したのである。

霍光らは武帝の孫である昌邑王劉賀を擁立するもすぐに廃位。霍光らは後継者選定に悩むこととなった。

光坐庭中、會丞相以下議定所立。廣陵王已前不用、及燕剌王反誅、其子不在議中。近親唯有衛太子孫號皇曾孫在民間、咸稱述焉。
(『漢書』霍光伝)

消去法で残るのは劉病已であった。
あるいは、劉病已が後宮に囲い込まれたのには最初から昭帝が早死した場合のスペアという意味もあったのかもしれない。


こうして、若くして投獄経験があり、朝廷に参列する身分であり、宦官や高官の二世と親しく、それでいてバクチや悪徳役人、裏社会に通じた青年皇帝が誕生したのである。