その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180201/1517416307)の続き。
巫蠱事連歳不決。至後元二年、武帝疾、往來長楊・五柞宮、望氣者言長安獄中有天子氣、上遣使者分條中都官獄繫者、輕重皆殺之。内謁者令郭穰夜至郡邸獄、吉拒閉、使者不得入、曾孫頼吉得全。因遭大赦、吉乃載曾孫送祖母史良娣家。語在吉及外戚傳。
後有詔掖庭養視、上屬籍宗正。時掖庭令張賀嘗事戻太子、思顧舊恩、哀曾孫、奉養甚謹、以私錢供給教書。
(『漢書』巻八、宣帝紀)
丙吉の話は前回先走って書いた通り。
助かった後の宣帝劉病已は、まず史氏の家に送られた。
衛太子史良娣、宣帝祖母也。太子有妃、有良娣、有孺子、妻妾凡三等、子皆稱皇孫。史良娣家本魯國、有母貞君、兄恭。以元鼎四年入為良娣、生男進、號史皇孫。
武帝末、巫蠱事起、衛太子及良娣・史皇孫皆遭害。史皇孫有一男、號皇曾孫、時生數月、猶坐太子繫獄、積五歳乃遭赦。治獄使者邴吉憐皇曾孫無所歸、載以付史恭。恭母貞君年老、見孫孤、甚哀之、自養視焉。
(『漢書』巻九十七上、衛太子史良娣伝)
劉病已が実際に史氏の故郷魯国に行ったのか、それとも長安にいたのか、よくわからない。ただ、なんにしろ4、5歳の幼児になるまでは獄中、それからは曾祖母にあたる史貞君によって育てられたということになる。
それから、劉病已は皇帝の後宮で育てられることになった。もしかすると、先帝の近親は手元に置いた方がいいと霍光らが考えたのかもしれない。
初、(張)安世兄賀幸於衛太子、太子敗、賓客皆誅、安世為賀上書、得下蠶室。後為掖庭令、而宣帝以皇曾孫收養掖庭。賀内傷太子無辜、而曾孫孤幼、所以視養拊循、恩甚密焉。
(『漢書』巻五十九、張安世伝)
そこで、劉病已の祖父である戻太子(衛太子)に恩があった張賀に出会った。
張賀は旧恩を忘れず、かつての主の孫を大変手厚く養育したという。
張賀は以前紹介した霍光の協力者張安世の兄(つまり張湯の子)である。この時には戻太子の乱のせいで宦官にされていたが、張賀の戻太子への忠義は変わりなかったようだ。
幼い時の丙吉、獄を出てからの曾祖母史貞君、そして後宮における張賀。
この3人によって劉病已は育ったと言っていいだろう。