さかのぼり前漢情勢12

私はまだ飽きてないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100212/1265901736の続き。


さて、元帝の父がみんなご存知宣帝である。

宣帝のうそ臭いくらいやんごとない出自やら激動の青年期やら中興の祖という評価やらは後回しにして、まずは宣帝期末期の大事件について。

匈奴呼韓邪單于稽侯■來朝、贊謁稱藩臣而不名。賜以璽綬・冠帶・衣裳・安車・駟馬・黃金・錦繡・虵絮・使有司道單于先行就邸長安、宿長平。上自甘泉宿池陽宮。上登長平阪、詔單于毋謁。其左右當戶之群皆列觀、蠻夷君長王侯迎者數萬人、夾道陳。上登渭橋、咸稱萬歲。單于就邸。置酒建章宮、饗賜單于、觀以珍寶。二月、單于罷歸。遣長樂衛尉高昌侯忠・車騎都尉昌・騎都尉虎將萬六千騎送單于。單于居幕南、保光祿城。詔北邊振穀食。郅支單于遠遁、匈奴遂定。
(『漢書』宣帝紀、甘露三年)
※■は「けものへん」に「冊」という字。

匈奴の呼韓邪単于が漢に事実上降伏した。

匈奴といえば漢の北辺で境を接する遊牧民で、強力な騎兵の力をもって北辺を略奪して回った漢の宿敵。
高祖劉邦が苦杯を舐めた相手も匈奴である。
武帝は大規模な匈奴への反攻を行い、それなりの成果は得たものの、単于すなわち匈奴の大君主自らを屈服させるには至らなかった。

その意味ではこれは漢始まって以来の快挙であり、高祖劉邦の汚名を雪ぎ武帝の注力に報いたと言えよう。


なぜ匈奴が降伏したかといえば、匈奴が大乱の時代を迎えたからである。
上述宣帝紀にもあるように、当時、匈奴には二人の単于がいたのだ。


一人は漢に降伏した呼韓邪單于。
もう一人が郅支單于である。

この二人は兄弟であり、共に前の単于の子であったが、後継者争いに端を発した匈奴内の大乱を生き延び、最終的に単于の地位を争う関係となった。

その頃、匈奴武帝、宣帝による北辺攻撃などがボディーブローのように効いていてもはや昔日の面影は無く、軍事的にも漢との上下関係は逆転していた。
それでも国がまとまっていれば降伏する必要などなかったかもしれないが、匈奴内を真っ二つにしての兄弟ゲンカに勝つため、両陣営ともに漢へ接近していたのである。
漢は呼韓邪單于を選んだのだ。


これにより漢の北辺・西辺事情は変わることになる。
匈奴にはそれなりの敬意と警戒を払いつつも、以前のように侵攻に備える必要も、こちらから攻め込む必要もなくなった。
更に、西辺つまり西域方面のパワーバランスも重要である。
武帝以来西域進出に積極的だった漢は、呼韓邪單于降伏前から西域へ軍を置き、西域都護を置いて西域の保護者として振舞うようになった。
それまでは主に匈奴の役割だったわけで、漢はこれを奪ったのである(これが匈奴弱体化に繋がった面もあるはずだ)。
匈奴降伏後は漢は更に勢力を増し、西域に戊己校尉を置いて長期的に軍を駐屯するようになっていった。

「漢の平和」の時代の幕開けであった。
漢により西域諸国が内政干渉、時には軍事的な干渉を受けまくる時代とも言える。


武帝の末期、漢の勢いは決して上り調子ではなかった。
匈奴との戦いも尻すぼみで終わってしまった。
しかし、そこから三十年ほどでここまで体勢を立て直したのだから、確かに宣帝は中興の祖と呼ばれても不思議ではない実績があったことになるだろう。

その具体的内容については次回以降。