さかのぼり前漢情勢9

いつまで続けるか自分でも決めてないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100210/1265728449の続き。


さて、成帝の父である元帝が死去して成帝が即位した時点で、国政を壟断していた人物がいた。


宦官の中書令石顕である。


石顕は元帝放任主義の極みであるのをいいことに、尚書令の五鹿充宗らと結び、朝廷の文書行政のトップを制圧して国政を牛耳っていた。

元帝晩節寝疾、定陶恭王愛幸、顯擁祐太子頗有力。
(『漢書』石顕伝)

しかも彼は皇太子すなわち成帝廃嫡の阻止にも力を貸したらしく、成帝から見れば恩人でもある(元帝は死期が近づいた際にかなり本気で皇太子の廃嫡を考えていたらしい)。
成帝としては恩人であり、代替わりの後も石顕の権力と地位は保証されたようなものである。


と思ったら。

元帝崩、成帝初即位、遷顯為長信中太僕、秩中二千石。顯失倚、離權數月、丞相御史條奏顯舊惡、及其黨牢梁・陳順皆免官。顯與妻子徙歸故郡、憂滿不食、道病死。諸所交結、以顯為官、皆廢罷。少府五鹿充宗左遷玄菟太守、御史中丞伊嘉為鴈門都尉、長安謠曰「伊徙鴈、鹿徙菟、去牢與陳實無賈」
(『漢書』石顕伝)

成帝は手のひらを返した。
成帝は石顕を実権の無い名誉職に遷したのである。守るものを失った石顕はこれまでの悪事を摘発され、罷免されて故郷へ強制送還されるところで病死。哀れな末路と言うべきかもしれない。


ここではあっさりと排除されたかのように書かれているが、元帝の時代に何人もの対立者を失脚させ、時には命まで奪ってきた石顕がそこまで簡単に排除できるものだろうか。

おそらくだが、ここに王鳳に大司馬大将軍というこれ以上ない大官が与えられた理由があると思う。
つまり、石顕排除の過程で石顕とその一党が謀反を起こさないように軍を抑え、尚書を抑える人間が必要だったのだ。
同じ外戚でも石顕時代から継続している大司馬車騎将軍許嘉はこの点では信用できない。
石顕の下で地位を保全しているということは、石顕と通じているかもしれないということなのである。


石顕を排除しようとするためには、許嘉以上の地位に、許嘉よりも信頼性の高い人物を置かなければならなかった、ということだろう。


王鳳は成帝の実母の兄であり、信頼性という点では申し分ない。元帝時代から九卿などを経験しており、能力面でも問題は無かった。
王鳳が第二の石顕になる危険があったとしても、宦官に皇帝も大臣も操られるという時代は御免だ、というのが成帝の意図だったのではないだろうか。

四年春、罷中書宦官、初置尚書員五人。
(『漢書』成帝紀、建始四年)

石顕が排除されると、成帝は中書の制度自体を廃止し、代わりに尚書を拡充した。
一気に中書宦官の制度自体を消し去るところまで行ったのは、大司馬大将軍領尚書事という「劇薬」のお陰だったのかもしれない。