その後の司馬遷

(司馬)遷既被刑之後、為中書令、尊寵任職。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

司馬遷は手術後に「中書令」となり、武帝に気に入られ任を着実にこなしたと評された。




是時中書令石顯顓權、顯友人五鹿充宗為尚書令、與房同經、論議相非。
(『漢書』巻七十五、京房伝)

その「中書令」は、宣帝・元帝の頃には石顕らの宦官が就任し、しばしば士人の官僚たちから非難の対象ともなってきていた。



(蕭)望之以為中書政本、宜以賢明之選、自武帝游宴後庭、故用宦者、非國舊制、又違古不近刑人之義、白欲更置士人、繇是大與(史)高・(弘)恭・(石)顯忤。
(『漢書』巻七十八、蕭望之伝)

元帝の頃の蕭望之によれば、「中書」を宦官にやらせるようになったのは武帝以降というから、司馬遷は「中書令」が皇帝の側近中の側近となった初期の就任者ということらしい。



もちろん、司馬遷が何か悪事を働いたとか権力をほしいままにしたとかいったことではないが、司馬遷は宦官になってから武帝にかなり目をかけられたということは言えるだろう。