應劭漢官馬第伯封禪儀記曰「車駕正月二十八日發雒陽宮、二月九日到魯、遣守謁者郭堅伯將徒五百人治泰山道。十日、魯遣宗室諸劉及孔氏・瑕丘丁氏上壽受賜、皆詣孔氏宅、賜酒肉。
(『続漢書』祭祀志上注)
応劭『漢官儀』には馬第伯の「封禅儀記」なる書が引用され、後漢光武帝による封禅の次第が分かるようになっている。
光武帝が魯まで到達すると、魯では皇室の劉氏と孔氏、そして瑕丘丁氏を光武帝の元へ派遣したという。
孔氏が孔子の子孫であることは明らかだが、「瑕丘丁氏」とは一体何者か。なぜここで出てくるのだろうか。
「瑕丘丁氏」というとこの哀帝の母丁姫が該当する。
で、その丁氏の先祖が易の大家である丁将軍。
丁将軍とは呉楚七国の乱の際に実際に将軍として活躍した丁寛。
彼の学統が梁丘賀や京房の易学につながっていくので、漢易の世界では確かに「祖師」と呼んで差し支えないだろう。
「封禅儀記」に見える「瑕丘丁氏」はこの丁将軍こと丁寛の縁者なのだろうか。
ただ、何故光武帝の封禅の時に「瑕丘丁氏」が出てくるのか、たとえ丁将軍の縁者だったとしても理由が分からない。