格上げかもしれない

魏文帝黄初二年正月、詔以議郎孔羨為宗聖侯、邑百戸、奉孔子、令魯郡修舊廟、置百戸吏卒以守衛之。及武帝泰始三年十一月、改封宗聖侯孔震為奉聖亭侯。又詔太學及魯國、四時備三牲以祀孔子
(『晋書』巻十九、礼志上、吉礼)


かの孔子こと孔丘先生の子孫は曹魏の時に「宗聖侯」となり、晋の時に「奉聖亭侯」に変わった。


また「亭侯」になっている。


時石冰之黨陸珪等屯據諸縣、(華)譚遣司馬褚敦討平之。又遣別軍撃冰都督孟徐、獲其驍率。以功封都亭侯、食邑千戸、賜絹千匹。
(『晋書』巻五十二、華譚伝)

封為襄陽縣侯、邑萬戸。封子彝楊郷亭侯、邑千五百戸、賜絹萬匹、又賜衣一襲・錢三十萬及食物。
(『晋書』巻四十二、王濬伝)

(荀)顗預討(毋丘)儉等有功、進爵萬歳亭侯、邑四百戸。
(『晋書』巻三十九、荀顗伝)

魏晋の頃の亭侯の封邑を見ると、どうも数百戸から千戸以上でもおかしくないようだ。



となると、宗聖侯が邑百戸であったのに対し、亭侯は百戸以上の封邑であった可能性が高くなってくる。




という事は、邑百戸の宗聖侯から、それ以上の戸数である可能性が高い亭侯への変更という事になるわけで、これは格上げなのか?




もしかすると後漢のも同様であった可能性もあるかもしれないが、そこは断言できない。