劉禅の屈辱

蜀の諸葛亮死後、蜀の権力と軍事は大将軍となった蒋琬の手に委ねられることとなった。

だが、最初から軍事すべてが諸葛亮から継承されたわけではない。

なぜなら、呉壱がいたからだ。

(呉)子遠名壹、陳留人也。隨劉焉入蜀。劉璋時、為中郎將、將兵拒先主於涪、詣降。先主定益州、以壹為護軍討逆將軍、納壹妹為夫人。章武元年、為關中都督。建興八年、與魏延入南安界、破魏將費瑤、徙亭侯、進封高陽鄉侯、遷左將軍。十二年、丞相亮卒、以壹督漢中、車騎將軍、假節、領雍州刺史、進封濟陽侯。十五年卒。失其行事。
(『三国志楊戯伝)

諸葛亮が死んだ建興十二年から呉壱が死ぬ建興十五年までの間、漢中に駐屯していたのは呉壱であった。
大将軍・仮節・益州刺史の蒋琬に対して呉壱は車騎将軍・仮節・雍州刺史。
その差は小さい。同格に限り無く近いのである。だが権力を握っているのは蒋琬であった。

その上、彼は皇帝劉禅の皇太后呉氏の兄。生さぬ仲とはいえ帝舅、いわゆる外戚なのである。

諸葛亮に信頼された有能な人物であったとはいえ、明らかに格下であった蒋琬に追い越された呉壱の心中はどうだったのだろうか。


そればかりではない。
自分の外戚呉壱ではなく諸葛亮の部下を自分の摂政に据えるというのは、皇帝劉禅にとっても決して喜ばしいことではなかったのではないか。

呉壱は単なる外戚ではなく、軍事的にも有能で実績もある人物だったのに、軍事的には未知数な蒋琬を選ばざるを得ない。
選んだのは劉禅ではない。諸葛亮の遺言である。
劉禅にしてみれば、より適任な人物がいるのに不合理な人事を押し付けられているのである。人事権を握っているべき皇帝が、である。皇帝としてこんな舐められた話はない。


きっと、呉壱以上に劉禅の方がこの人事によってプライドを傷つけられたのではなかろうか。
蒋琬と劉禅破局はこの時すでに運命づけられていたのかもしれない。