劉豫州

みんなずっと前から分かってることだろうけど、あえて言ってみる。

劉備豫州牧。

後漢末の群雄割拠の時代、豫州刺史(牧)は乱立と言っていいほど何人もいた。
孫堅もその一人だ。
しかしほとんどの者は戦に破れ、あるいは末路も分からぬままに消え、いつしか劉備だけが残っていた。


豫州というのは潁川、汝南、梁国、沛国、陳国、魯国。
献帝曹操強制移住させられたのは潁川郡許県。
後漢末の名家荀氏は潁川郡の人。
あの袁紹ら袁氏は汝南郡の人。
曹操らの曹氏、夏侯氏は沛国の人。
後漢末において、この豫州の牧、統治者となったのは曹操でも袁紹でもない。
劉備なのだ。

無論、現実には統治者として機能していた期間は極めて短い。というか無いに等しい。
だが、名目的なものにしろ実力によって牧の位の正当性を周囲に認めさせたと言える劉備の群雄にとっての価値は計り知れない。
曹操は自分の支配域(豫州)の安定のために豫州牧の劉備を左将軍という高位に就け、袁紹豫州牧の劉備を厚遇して曹操挟撃のため豫州への別働隊に送り出し、劉表はおそらく豫州進出の足がかりとして豫州牧の劉備を使おうとした。

負けても逃げても行く先で援助や保護が与えられ、その都度官位や地位が上昇するという奇跡の将、劉備。その幸運は主に豫州牧から来ているのだ。多分。