曹叡の年齢

日帝崩于嘉福殿、時年三十六。
(『三国志』明帝紀

元旦にお亡くなりになった魏の明帝曹叡。明帝紀のこの箇所について裴松之は注釈で「建安9年8月に母が父の妻となったんだから、建安10年生まれのはず。でもそれだと享年34歳だから36歳ってのは間違いじゃね?」と言っている。

三国志集解』によると、その後も明帝の年齢(15歳で武徳侯に封じられたと記されているが武徳侯になったのは文帝紀の延康元年に見える)については色々と説が出され、矛盾を解消しようと試みられてきたようだ。
そんな先人たちの論を『三国志集解』の作者である廬弼さんは一蹴する。

「みんな延康元年封侯にこだわりすぎ。文帝紀の黄初以前の記事は、もっと前のことも混ざっていたりするんだよ。封侯も同じだって。
だって常林伝注引『魏略』には建安23年に吉茂が武徳侯庶子になっていた記録があるじゃん。明帝が武徳侯になったのはこの時。それなら15歳封侯で年齢が合う。
享年36歳で正解なんだよ。
陳寿は曲筆して明言を避けてるのさ。でもちゃんと年齢を逆算して、明帝の母が文帝から死を賜ったり、明帝もずっと皇太子になれなかったりしたことも傍証とすれば、明帝が一体誰の子供だったのか言わずとも分かるだろう?」

廬弼ははっきりと誰の子だとは言っていないが、かなり明快に明帝が文帝の子供ではなかったという説を述べている。