衛の滅亡に関する妄想

秦が中国を統一した頃の話。

戦国時代を一応生き抜いた小国「衛」。
衛の君主の爵位は「公」から「侯」、さらに「君」と格下げされ、おこぼれで封邑を与えられ祭祀を許されたという状態と言えた。

その「衛」が取り潰されて祭祀も途絶えるのは二世皇帝の時代だと『史記』には記されている。

他の六国は問答無用に滅ぼされているのにこの違いは何だ、というのは誰しも感じる素朴な疑問であろう*1


だがふと思ったのだが、楚の王族だとされる昌平君も「君」である。
もしかしたら衛君と同格なのではないか。


そこから妄想をたくましくすると、衛君や昌平君は秦の爵位の一種としての「君」であり、秦に正式に認められた存在という事になる。
で、衛君は衛の祭祀を継承していた。昌平君はきっと楚が滅んだ暁には秦の保護下で楚の祭祀を継承することが予定された存在だったのではないか(だから楚に遷された)。
自分に従うなら祭祀は残してやる、ということだ。

始皇帝の下では衛が滅ぼされないでいたのも、説明が付く。
王号を主張せず、あくまで秦の一貴族として祭祀を継承する分には、始皇帝にとって天下統一に反する存在ではない。
むしろ始皇帝の度量を示す材料でさえある。臣従さえすれば祭祀まで途絶えさせるような真似はしない、ということだ。

二世元年(『史記』六国年表による)に廃位されたのは、各地の反乱を見た二世側が、衛君まで反抗して反乱の旗頭になるのを予防したのであろう。

*1:東京大学のある先生の研究はそのスジには有名。