張生の父

(文帝)元年、以故魯王為南宮侯。
(『史記』高祖功臣侯者年表)

南宮
以父越人為高祖騎將、從軍、以大中大夫侯。
呂后)元年四月丙寅、侯張買元年。
八年、侯買坐呂氏事誅、國除。
(『史記』恵景間侯者年表)

宣平武侯張敖

高后二年、侯偃為魯王、孝文元年復為侯、十五年薨、諡共。
六年、哀侯歐嗣、十七年薨。
孝景中三年、侯王嗣、十四年、有罪、免。
(『漢書』高恵高后文功臣表)

南宮侯張買
以父越人為高祖騎將從軍、以中大夫侯。
呂后)元年四月丙寅封。
侯生嗣、孝武初有罪、為隸臣。萬六千六百戶。
(『漢書』高恵高后文功臣表)

孝文即位、復封故魯王偃為南宮侯。薨、子生嗣。武帝時、生有罪免、國除。
(『漢書』張耳伝)


漢書』の南宮侯の記事が混乱している。

南宮侯を継いだ「張生」の父が4では「張買」、5では「張偃」(元の魯王)となっている。
なんだこりゃ。
これは1や2を見てのとおり、「張買」は呂氏失脚により南宮侯を失い、それから文帝によって「張偃」が南宮侯になっているのが正しい。
つまり、4は「張買」が侯を失ったことを書き漏らしているのである。

だが、実は5の列伝も間違っている。
3を見ると、「張偃」の列侯(封地名が書かれていない)は子の「張歐」、その子「張王」の三代続いているのだ。
おそらく「張王」は「張生」の誤伝であろう。
4、5は「張歐」をすっとばしてしまっているのだ。


正しくはこうなると思われる。
 南宮侯(1):「張買」→断絶
 南宮侯(2):       「張偃」→「張歐」→「張生」→断絶

漢書』はどの記述も誤りを含んでいるというのが面白い。