『漢書』高后紀を読んでみよう:その1

「『漢書』恵帝紀を読んでみよう」(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170908/1504796730)の続き。


いよいよガチに呂后時代である。



高皇后呂氏、生惠帝。佐高祖定天下、父兄及高祖而侯者三人。
惠帝即位、尊呂后太后太后立帝姉魯元公主女為皇后、無子、取後宮美人子名之以為太子。
惠帝崩、太子立為皇帝、年幼、太后臨朝稱制、大赦天下。乃立兄子呂台・産・祿・台子通四人為王、封諸呂六人為列侯。語在外戚傳。
元年春正月、詔曰「前日孝惠皇帝言欲除三族辠・妖言令、議未決而崩、今除之。」
二月、賜民爵、戸一級。
初置孝弟力田二千石者一人。
夏五月丙申、趙王宮叢臺災。
立孝惠後宮子強為淮陽王、不疑為恆山王、弘為襄城侯、朝為軹侯、武為壺關侯。秋、桃李華。
(『漢書』巻三、高后紀)

恵帝には皇太子がいた。「後宮の美人(女官の地位の名)の子」なので、恵帝の子ではあるが恵帝の皇后だった張氏(呂后の孫で恵帝の姪)の子ではないということだ。



一部時系列どおりに記録されておらず、呂台らを王にしたのは恵帝死後すぐではない。そのあたりは後で出てくるだろう。




恵帝が即位した時には「臨朝称制」すなわち呂后が摂政になったといったようなことは書いていないが、今回即位した皇帝(名前不明)の際には書かれている。



二十代前半で死んだ皇帝の子なのだからどれだけ早熟であったにしても新帝は十歳にもならないような子どもだったはず。実際に政務に携わることができないということだろう。





「三族」とは本人の妻子のみならず、父の一族、母の一族、妻の一族も皆殺しにする刑罰だといい、『漢書』刑法志によるとただ殺すのではなく足や鼻を斬り落とし、むち打ちで殺した上で晒し首と遺体塩漬けにするというフルコースだそうだ。



恵帝の希望であったというから、確かに恵帝は仁愛の人だったのかもしれない*1




太子即位為帝、謁高廟。元年、號令一出太后
太后稱制、議欲立諸呂為王、問右丞相王陵。王陵曰「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王、天下共撃之』。今王呂氏、非約也。」太后不説。問左丞相陳平・絳侯周勃。勃等對曰「高帝定天下、王子弟、今太后稱制、王昆弟諸呂、無所不可。」太后喜、罷朝。王陵讓陳平・絳侯曰「始與高帝啑血盟、諸君不在邪?今高帝崩、太后女主、欲王呂氏、諸君從欲阿意背約、何面目見高帝地下?」陳平・絳侯曰「於今面折廷爭、臣不如君。夫全社稷、定劉氏之後、君亦不如臣。」王陵無以應之。
十一月、太后欲廢王陵、乃拜為帝太傅、奪之相權。王陵遂病免歸。迺以左丞相平為右丞相、以辟陽侯審食其為左丞相。左丞相不治事、令監宮中、如郎中令。食其故得幸太后、常用事、公卿皆因而決事。
迺追尊酈侯父為悼武王、欲以王諸呂為漸。
四月、太后欲侯諸呂、迺先封高祖之功臣郎中令無擇為博城侯。魯元公主薨、賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父、宣平侯張敖也。
封齊悼惠王子章為朱虚侯、以呂祿女妻之。齊丞相壽為平定侯。少府延為梧侯。乃封呂種為沛侯、呂平為扶柳侯、張買為南宮侯。
太后欲王呂氏、先立孝惠後宮子彊為淮陽王、子不疑為常山王、子山為襄城侯、子朝為軹侯、子武為壺關侯。
太后風大臣、大臣請立酈侯呂台為呂王、太后許之。建成康侯釋之卒、嗣子有罪、廢、立其弟呂祿為胡陵侯、續康侯後。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

このあたりについては『史記』の方が一転してやけに記事が多くなる。



漢書』では外戚伝や各列伝、表などにその内容が分散されているためだろうが、逆に『史記』では「三族」廃止のようなことは出てきていない。




史記』は権力闘争的な部分がよりクローズアップされる傾向があるのかもしれない。

*1:ただしその後も何度か「三族」の刑罰は出てくるので、特例として行われることはあったのだろう。