呂后の飴と鞭

漢の高祖の皇后で恵帝の実母、呂后

恵帝死後、彼が皇太后として実権を握る時代となった。

彼女は諸侯王の劉氏、高祖の功臣である大臣たちを敵に回しつつ呂氏の勢力を伸ばし、ついには呂氏を王とすることに成功した。

その裏には、自分に従う者への「飴」と、諸侯を監視し従わない場合に処分する「鞭」があった。

その一つに、諸侯王の宰相(諸侯相)への褒賞および自派閥からの諸侯相派遣がある。

呂后の時代、以下の者が列侯となっている。
・斉受(斉丞相):斉王劉肥(高祖の子)の丞相
・呂勝(淮陽丞相):淮陽王劉強(恵帝の子)の丞相
・朱通(呂丞相):呂王呂嘉(呂氏)の丞相
・王恬啓(梁丞相):梁王劉恢(高祖の子)の丞相
・徐徐s(恒山丞相):恒山王劉朝(恵帝の子)の丞相
・呂更始(楚丞相):楚王劉交(高祖の弟)の丞相
・越(長沙丞相):長沙王呉右(呉芮の子孫)の丞相

諸侯相は諸侯王の宰相であり、諸侯王の行動を制限、監視しうる立場にある。その者たちを列侯とするというのは、呂氏に反抗的な諸侯王の宰相に対しては監視への褒賞であるし、呂氏一党の諸侯王の宰相に対しては忠勤への褒美であろう。

もちろん全ての諸侯相についてそういう褒賞が行われたわけではない。他の諸侯王に対しても、また別の手段があるのだ。
趙王劉友(高祖の子):后が呂氏
趙王劉恢(高祖の子):后が呂氏
淮南王劉長(高祖の子):呂后の元で育つ

つまり、呂后は諸侯王対策として、宰相に息のかかった者を送り込むことや、后を呂氏とすることなどで諸侯王の不逞の行いを監視、統御していたのである。

では、他の王はどうか。
上記に出てこない当時の王は呉王、燕王、代王である。
あの呉王劉濞については、おそらくは遠方ゆえに放置状態なのだろう。
燕王劉建は高祖の子であるが、彼は死後に側室から生まれていた子を呂后に始末されており、正妻や側近が呂氏だったのではないかと思わせる。

となると、残りは代王恒、すなわち後の文帝である。
彼も高祖の子なのだが、どうも彼についてははっきりとしたことが分からない。他の高祖の子が全て監視下に置かれるか殺されるかしていたことを考えると、辺境に封じられた彼とて例外とは思えないのだが・・・。
勘ぐり過ぎとの謗りを覚悟の上で言わせてもらうと、ちょっと何か隠されているような気がしてしまう。


http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090103/1230982010を参照。