『漢書』高后紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170921/1505919852)の続き。




秋七月辛巳、皇太后崩于未央宮。
遺詔賜諸侯王各千金、將相列侯下至郎吏各有差。
大赦天下。
(『漢書』巻三、高后紀)

ここから先が長いので、今回はここで切っておく。



呂后死去。




正直『漢書』高后紀だけでは唐突に思えるが、『史記』呂太后本紀や他の記事を合わせて見れば予兆があったことがわかるだろう。



七月中、高后病甚、迺令趙王呂祿為上將軍、軍北軍。呂王産居南軍。
太后誡産・祿曰「高帝已定天下、與大臣約曰『非劉氏王者、天下共撃之』。今呂氏王、大臣弗平。我即崩、帝年少、大臣恐為變。必據兵衛宮、慎毋送喪、毋為人所制。」
辛巳、高后崩。遺詔賜諸侯王各千金、將相列侯郎吏皆以秩賜金。
大赦天下。
以呂王産為相國、以呂祿女為帝后。
高后已葬、以左丞相審食其為帝太傅。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


史記』本紀では死期を悟った呂后が呂氏のリーダー格である呂禄・呂産に軍を任せ、同時に大臣たちを警戒するよう戒めた。



大臣たちは秦末の反乱者側の人間であったり果断な将軍であったり知恵者だったりするわけで、呂后としてはどれだけ警戒しても足りない食わせ者だったのだろう。



呂産は相国となり、呂禄は上将軍にして皇后の父という立場に収まる。





そして、呂后の寵臣であった審食其は丞相から太傅に遷った。



地位としてはより上位ではあるが、太傅就任は一般には実権が無い名誉職への左遷と解釈される場合が多いだろう。たぶん今回もそれである。



呂后からは気に入られていても、他の呂氏とは良好な関係ではなかったのかもしれない。