呉の二宮問題について

たまに三国志のいわゆる「二宮事件」を考えてみたくなる。

私が二宮関係の列伝等を眺めてて不思議に思うのが、孫権陸遜への対応。

丞相陸遜は皇太子交代の議論があると知ると、「皇太子と魯王の区別をつけなされ」みたいな諫言をした。すると太子の「もりやく」である太子太傅吾粲は陸遜との文書のやりとりを理由に獄に下され、陸遜自身も孫権の使者により責め詰られ、怒りを発して急死した。
しかも、陸遜が死ぬと子の陸抗に「楊竺が陸遜について言った二十事」を詰問している。

是儀も似た様な諫言をしているのだが、こんな目には遭った様子は無い。

それ以上に不思議なのは、なぜこの諫言で「詰問」する必要があるのか、ということ。諫言を無視するというなら分かるが、陸遜親子は何かを「二十事」も詰問されているのだ。魯王派急先鋒の楊竺からの「二十事」とはいえ、一体何を言えば周囲まで巻き込むような大事になるのだろう?

私はどうしても腑に落ちない。よく孫権老害だのと言われるが、仮に孫権がこの時曖昧だったとしても、こんな苛烈で不可解な爆発は他にないのではなかろうか。



(この疑問が恐ろしくスッキリ解消してしまう話があるわけだが、これを敢えて外して考えてみた。)