陳寿の本心その2

三国志武帝紀・文帝紀、先主伝、呉主伝を、注を含めずに比べてみる。

・公・王への封建
魏:武帝紀においては、建安18年に突如として天子(献帝)が曹操を魏公に封建したかのような印象を受ける。策書はおそらくほぼ全文が収録されている。曹操が三度謙譲して断ること、中軍師荀攸ら大臣たちが勧進することは、注に収録されているが『三国志』本文にはない。
蜀:先主伝においては、臣下が連名で劉備を漢中王にするようにと漢帝(献帝)に上表し、劉備は「臣下に迫られて仕方なく」という言い分で漢中王になることを漢帝に宣言する二つの上表を収録。
呉:呉主伝では、魏文帝が孫権を呉王に封じる策命を収録。
・皇帝即位
魏:文帝紀においては、「漢帝以衆望在魏、乃召羣公卿士、告祠高廟、使兼御史大夫張音持節奉璽綬禪位、冊曰」とあり、策書を収録する。しかし策は魏公のそれより短く、省略があるだろう。注では後漢紀や献帝伝によりこの際の長々とした手続きや魏王が何度も謙譲していることを知ることが出来る。
蜀:建安25年に魏王が皇帝を称し皇帝(献帝)が殺されたという伝聞を記し、瑞祥の出現をもって劉豹らが劉備が即位すべきと説く。許靖ら漢中王の大臣や諸葛亮ら漢の官位を持つ者らは劉備に即位を勧める。そこで劉備は即位する。二者の勧進と即位時の天への報告文を載せる。手続きはおそらく魏の例と同様にかなり省略されているだろうが、魏と違い臣下の声と天への声明文を収録している。
呉:「黃龍元年春、公卿百司皆勸權正尊號。夏四月、夏口﹑武昌並言黃龍﹑鳳凰見。丙申、南郊即皇帝位、是日大赦、改年」で終わり。



臣下が王や皇帝になるのを勧める文面や、即位儀礼のラストを飾ると思われる天地の燎祭において読み上げる文を載せるのが蜀だけ、というのは、陳寿の意図的なものではないだろうか。