南陽文氏

呉主(孫)權王夫人、南陽人也。以選入宮、嘉禾中得幸、生(孫)休。及(孫)和為太子、和母貴重、諸姫有寵者、皆出居外。夫人出公安、卒、因葬焉。休即位、遣使追尊曰敬懐皇后、改葬敬陵。王氏無後、封同母弟文雍為亭侯。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主權王夫人)


孫休の母である南陽の王夫人。この王夫人は孫休が皇帝に即位した時には既に世を去っており、王氏の後継者もいなくなっていたらしい。



そこで孫休は「同母弟文雍」を亭侯に封建したのだという。




ここの「同母弟」は「母は同じ、父は違う」弟という意味だろう。つまり、おそらくは王夫人の母の再婚後に生まれた父の違う弟だろう。


そして、その弟の姓が「文」氏なのだと思う。




王夫人は南陽の人なので、おそらくだが再婚相手も南陽の人の可能性が高い。



つまり、「同母弟文雍」とは南陽の人で姓「文」、名「雍」ということだろう。




南陽の同時代の文氏といえば文聘や文穎。


近親ではないのだろうが、彼らはおそらく同族なのだと思う。

孫権の皇子

昨日の続き。



孫権が死に孫亮が皇帝になってから、孫権の皇子たちのうち南陽王孫和はほどなくして自殺、斉王孫奮も廃位されている。


つまり孫亮時代には諸侯王は琅邪王孫休だけになっていた。



その孫休は次の皇帝になっていて、孫休時代に新たに王が立てられたという話はなかったと思う。オリジナルネームの子供たちも孫休時代には王になっていなかったはずだ。



つまり、孫休時代には諸侯王はいなかったのではないか。




孫呉では、孫晧までは諸侯王が極端に少なかったようだ。

孫権と皇子

改めて孫権の皇子たちの諸侯王への封建を見てみると、そもそも孫慮は王になっておらず、その後に初めて王になったのがあの魯王孫覇


で、その魯王孫覇が死に、孫亮が皇太子となった2年後、太元2年に生きていた皇子全員である孫和・孫休・孫奮が王になっている。



ということは、太元2年までに王になったのは孫覇のみ。他の皇子たちは諸侯王になっていないままだったんだな。



この太元2年というのは孫権が「寝疾」となった翌年であり、孫権が死去した年である。



となると、この3皇子封建は代替わりを強く意識し、皇太子以外を都から「排除」しようとしたものなのだろう。そういう状況になって初めて諸侯王を立てたということになる。





孫権は、極端なまでに諸侯王を立てようとしない皇帝だった、ということだ。

孫奮の子たち

実は、昨日の記事について以下のような見解がある。

臣松之案、建衡二年至(孫)奮之死、孫晧即位、尚猶未久。若奮未被疑之前、兒女年二十左右、至奮死時、不得年三十四十也。若先已長大、自失時未婚娶、則不由晧之禁錮矣。此雖欲増晧之惡、然非實理。
(『三国志』巻五十九、孫奮伝注)

これは昨日の記事(注の『江表伝』)に続いて書かれている裴松之の言葉であるが、つまり孫奮の子が「三十四十」というのはおかしい、ということである。


確かに、結婚していないということは監禁された段階で未婚すなわち20歳にもなっていなかった可能性が高いが、それかた大して経っていないのに子供たちが「三十四十」ということになってしまうのである。





また、それとは別に考えてみる。


孫奮は孫和の弟孫覇の弟、とされている。つまり、最低でも孫和は孫奮と同年(母が違うので同年生まれという可能性はある)かそれ以降の生まれとしか考えようがない。



そんな孫和は皇太子になった赤烏5年(西暦242年)に19歳とされている。



一方、孫奮が死ぬこととなったのは建衡2年(西暦270年)。



その間28年。つまり、孫奮は孫和と同年生まれと仮定して47歳ほど。



その子が孫奮死亡時に30歳程度になっている可能性は、当時の婚姻の年齢層を考えればまあありうるが、35歳以上というのは流石に現実的ではないし、40歳は流石に無いだろう。



となると、確かに「三十四十」というのは少々誇張に過ぎるというところだろう。



ただ、孫奮の子が孫奮死亡時に20代後半から30歳前後になるという可能性は、無いとまで言い切れるほどではなさそうである。



当時の感覚なら20代後半で結婚していないのは割と珍しかったのではないかと思われるので、そういった「結婚適齢期」かそれを過ぎたが監禁のために結婚できないでいた子供たちが複数いた、という可能性なら十分あったんじゃないだろうか、とは思う。

禽獣皇子

建衡二年、孫晧左夫人王氏卒。晧哀念過甚、朝夕哭臨、數月不出、由是民間或謂晧死,訛言(孫)奮與上虞侯奉當有立者。奮母仲姫墓在豫章、豫章太守張俊疑其或然、掃除墳塋。晧聞之、車裂俊、夷三族、誅奮及其五子、國除。
【注】
江表傳曰、豫章吏十人乞代俊死、晧不聽。奮以此見疑、本在章安、徙還呉城禁錮、使男女不得通婚、或年三十四十不得嫁娶。奮上表乞自比禽獸、使男女自相配偶。晧大怒、遣察戰齎藥賜奮、奮不受藥、叩頭千下、曰「老臣自將兒子治生求治、無豫國事、乞丐餘年。」晧不聽、父子皆飲藥死。
(『三国志』巻五十九、孫奮伝)

孫晧の時、孫権の唯一残っていた皇子である章安侯孫奮は疑われて一家丸ごと監禁された。



完全に監禁されたことにより子供たちは結婚もできずに高齢になってしまったため、孫奮は敢えて自分たちを禽獣だと言い、近親間でも繁殖する禽獣と同じように禽獣たる自分たちも身内で結婚させてほしい、と言い出したという。



孫晧はそれに怒って孫奮に毒薬を贈った(自殺を求めた)が、孫奮はそれにも「政治には関わらないし食い扶持も自分たちで何とかするから命は助けてほしい」と言ったのだとか。





当時の常識、上流階級的な思考としては相当異端じゃないだろうか(上記引用の後で裴松之はこの内容について疑義を呈しているが)。

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