孫奮の子たち

実は、昨日の記事について以下のような見解がある。

臣松之案、建衡二年至(孫)奮之死、孫晧即位、尚猶未久。若奮未被疑之前、兒女年二十左右、至奮死時、不得年三十四十也。若先已長大、自失時未婚娶、則不由晧之禁錮矣。此雖欲増晧之惡、然非實理。
(『三国志』巻五十九、孫奮伝注)

これは昨日の記事(注の『江表伝』)に続いて書かれている裴松之の言葉であるが、つまり孫奮の子が「三十四十」というのはおかしい、ということである。


確かに、結婚していないということは監禁された段階で未婚すなわち20歳にもなっていなかった可能性が高いが、それかた大して経っていないのに子供たちが「三十四十」ということになってしまうのである。





また、それとは別に考えてみる。


孫奮は孫和の弟孫覇の弟、とされている。つまり、最低でも孫和は孫奮と同年(母が違うので同年生まれという可能性はある)かそれ以降の生まれとしか考えようがない。



そんな孫和は皇太子になった赤烏5年(西暦242年)に19歳とされている。



一方、孫奮が死ぬこととなったのは建衡2年(西暦270年)。



その間28年。つまり、孫奮は孫和と同年生まれと仮定して47歳ほど。



その子が孫奮死亡時に30歳程度になっている可能性は、当時の婚姻の年齢層を考えればまあありうるが、35歳以上というのは流石に現実的ではないし、40歳は流石に無いだろう。



となると、確かに「三十四十」というのは少々誇張に過ぎるというところだろう。



ただ、孫奮の子が孫奮死亡時に20代後半から30歳前後になるという可能性は、無いとまで言い切れるほどではなさそうである。



当時の感覚なら20代後半で結婚していないのは割と珍しかったのではないかと思われるので、そういった「結婚適齢期」かそれを過ぎたが監禁のために結婚できないでいた子供たちが複数いた、という可能性なら十分あったんじゃないだろうか、とは思う。