匈奴趙王について

燕王(盧)綰悉將其宮人家屬騎數千居長城下侯伺、幸上病愈、自入謝。四月、高祖崩、盧綰遂將其衆亡入匈奴匈奴以為東胡盧王。綰為蠻夷所侵奪、常思復歸。居歳餘、死胡中。
(『史記』巻九十三、韓信盧綰列伝)

漢の高祖の功臣だった燕王盧綰は高祖に疑われて討伐を受け、匈奴へ逃げた。



匈奴は盧綰を「東胡盧王」にしたのだという。




これで思ったのだが、以前の記事で紹介した「匈奴趙王」っての、これと同じような称号だったりしないだろうか。



つまり、中国から匈奴に降伏して王にしてもらった「燕王盧綰」が「東胡盧王」であるように、中国から匈奴に降伏して王にしてもらった「△王趙〇」が「匈奴趙王」なのではないか?




前漢以前で降伏したら王にしてもらえそうな「趙〇」がいるとしたら、戦国時代の趙王関係者なんじゃねえのかな・・・?証拠があるわけではないが。

義渠公孫氏

將軍公孫賀。賀、義渠人、其先胡種。
賀父渾邪、景帝時為平曲侯、坐法失侯。
賀、武帝為太子時舍人。武帝立八歳、以太僕為輕車將軍、軍馬邑。後四歳、以輕車將軍出雲中。後五歳、以騎將軍從大將軍有功、封為南窌侯。後一歳、以左將軍再從大將軍出定襄、無功。後四歳、以坐酎金失侯。後八歳、以浮沮將軍出五原二千餘里、無功。後八歳、以太僕為丞相、封葛繹侯。賀七為將軍、出撃匈奴無大功、而再侯、為丞相。坐子敬聲與陽石公主姦、為巫蠱、族滅、無後。
(『史記』一百一十一、衛將軍驃騎列伝)

へえ、前漢の公孫賀は先祖が異民族であったとされているのか。今まで気付かなかった。




とはいえ父の公孫渾邪の時点で太守になっているので、先祖の段階で漢化していたのかもしれないが。




ただこの公孫賀は息子の公孫敬声と共に長年漢王朝の太僕(官有の馬匹の養育や管理を担当する大臣)だったらしいので、この義渠公孫氏は馬の扱いに長けた異民族の一族とみなされていたのかもしれないなあ。

匈奴の名は

翕侯趙信(元光4年):匈奴
持装侯楽(元光6年):匈奴都尉
親陽侯月氏(元朔2年):匈奴
若陽侯猛(元朔2年):匈奴
渉安侯於単(元朔3年):匈奴単于太子
昌武侯趙安稽(元朔4年):匈奴
襄城(襄武)侯無龍(桀龍)(元朔4年):匈奴相国
潦侯趙王煖訾(元狩元年):匈奴趙王
下麾侯呼毒尼(元狩2年):匈奴
漯陰侯渾邪(元狩2年):匈奴渾邪王
煇渠侯扁訾(元狩3年):匈奴
河綦侯烏犂(元狩3年):匈奴右王
常楽侯稠雕(元狩3年):匈奴大当戸
壮侯復陸支(元狩4年):匈奴帰義因淳王
衆利侯伊即軒(元狩4年):匈奴帰義樓剸王
湘成侯敞屠洛(元狩4年):匈奴符離王
散侯董荼吾(元狩4年):匈奴都尉
臧馬侯延年(雕延年)(元狩4年):匈奴
瞭侯次公(元鼎4年):匈奴帰義王




武帝の時に匈奴からFAして漢の列侯になった者たち。



匈奴ネームっぽい者が多いが、趙信のように漢風の名前も見える。



元からそういう名前だった可能性もあるだろうし、どこかで漢風の姓名を名乗る、または賜ったという可能性もあるだろう。




また「渾邪王」の名が「渾邪」だったり「匈奴趙王」の名が「趙王煖訾」だったりと、匈奴における官位(爵位?)をそのまま名としているんじゃないかという例もある。




結論、武帝の頃、匈奴からの降伏者で漢風の名前を名乗っているのは多くは無い。彼らの多くは匈奴風の名をそのまま名乗り続けたのではなかろうか。


あるいは、匈奴風の名前をそのまま漢における姓名として使ったのかもしれない。


何にせよ、名の方を漢に寄せる傾向はあまりない。多分。




後の金日磾の例は特別な恩寵によるものだったのか?

王禁の評判

陽平
王稚君、家在魏郡。故丞相史。女為太子妃。太子立為帝、女為皇后、故侯、千二百戸。初元以來、方盛貴用事、游宦求官於京師者多得其力、未聞其有知略廣宣於國家也。
(『史記』巻二十、建元以来侯者年表)

史記』建元以来侯者年表は宣帝・元帝頃までの列侯が載っている司馬遷は長生きだなあと思うのだが、その中に元帝の王皇后の父王禁の事も載っていた。



「都で仕官を求める者たちは彼の助力を得る者が多かったが、朝廷で知略を見せるような事はなかった」みたいな事が書いてある。



直接役に立つ事はついぞなかったが、多くの人物が彼を頼ったというのは、王氏が大きくなった契機として無視できない要素なのかもしれない。

匈奴王たちの移籍

昨日の話(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/11/07/000100)だが、景帝の時の匈奴王の封侯は景帝中3年に集中している。

中三年冬、罷諸侯御史中丞。春、匈奴王二人率其徒來降、皆封為列侯。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

この年、確かに匈奴王が降伏してきて列侯になったとされている。



まあ、「二人」となっているのは7人封侯された事になっている表と食い違うが。



後歳餘、孝文帝崩、孝景帝立、而趙王遂乃陰使人於匈奴。呉楚反、欲與趙合謀入邊。漢圍破趙、匈奴亦止。自是之後、孝景帝復與匈奴和親、通關市、給遺匈奴、遣公主、如故約。終孝景時、時小入盜邊、無大寇。
(『史記』巻一百十、匈奴列伝)

だが、この時期の事を匈奴伝では特に記さない。




流石に匈奴王複数名が一気に漢に奔ったとなればそれなりの事件じゃないかと思うのだが、匈奴としては「よくある主力のFA流出」みたいなちょっとした事だったのだろうか?


それとも、匈奴王というのは降伏者たちの自称か何かで、実際にはそこまで大勢に影響を与えない程度の者たちだったのだろうか?




黄金の鷲

  • 弓高侯韓頹当(文帝前16年)
  • 襄成(城)侯韓嬰(文帝前16年)
  • 安陵侯子軍(景帝中3年)
  • 垣侯賜(景帝中3年)
  • 遒侯隆彊(景帝中3年)
  • 容成侯唯徐盧(景帝中3年)
  • 易侯僕黥(景帝中3年)
  • 范陽侯代(景帝中3年)
  • 翕侯邯鄲(景帝中3年)
  • 亜谷侯盧它父(景帝中5年)

漢の文帝・景帝の時、匈奴は漢に対し軍事的に優越していたと言われている。



そんな中、漢は以上のように匈奴の諸侯たちを何人もFA入団降伏させ、漢人に滅多に与えない複数年契約列侯の地位で厚遇した。




それでも景帝の頃や武帝の初期は匈奴に勝つ事はできなかった。



多分、匈奴の方では「FAで何人も選手取ったのに負けてるwwwwwww」みたいにあざ笑っていた事だろう。




おっ、凄く既視感のある構図だゾ!




ひとこと

前漢は景帝のあたりから匈奴からの降伏者が多数列侯になっているのだが、どうも匈奴ネームのまま表記されている者と、中華ネームっぽい名前で表記されている者、どっちもいるように思える。



その違いはどこのあたりにあるのだろうか?そして、中華風ネームはいつどういう契機で名乗るようになるのだろうか?よく分からない。




それと、匈奴との戦争が全面的に始まっているとは言えないはずの景帝期(匈奴と交戦はしているが)から降伏している匈奴王がけっこういるのが気になる。


匈奴王が何人も漢に奔っていて、匈奴側は問題になっていなかったのだろうか?