審食其の正体

高祖兄弟四人、長兄伯、次仲。伯蚤卒。
高祖既為沛公、景駒自立為楚王。高祖使仲與審食其留侍太上皇、交與蕭・曹等倶從高祖見景駒、遇項梁、共立楚懷王。因西攻南陽、入武關、與秦戰於藍田。至霸上、封交為文信君、從入蜀漢、還定三秦、誅項籍。
(『漢書』巻三十六、楚元王交伝)

漢の高祖劉邦が挙兵して間もなくの事、楚王を名乗った景駒の元へ合流しようという高祖は、父劉太公(太上皇)に兄劉仲と審食其を付けて沛に残した。





この劉邦が沛公になった直後という段階から審食其は高祖劉邦の家の内向きの事に関わっていた。



もしかして、審食其は元々劉氏に従う執事みたいな人間とかだったんだろうか?

広川王の謎

夏四月、立代孝王玄孫之子如意為廣宗王、江都易王孫盱台侯宮為廣川王、廣川惠王曾孫倫為廣徳王。
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始二年)


前漢平帝の時(王莽の時)、「広宗王」「広川王」「広徳王」が新たに建てられたのだという。


廣世
元始二年四月丁酉、王宮以易王庶孫盱眙侯子紹封、五年、王莽篡位、貶為公、明年廢。
(『漢書』巻十四、諸侯王表)

だが『漢書』諸侯王表ではこの時に新たに生まれたのは「広世王」だとされている。




「世」は「丗」「卅」(三十)と同じらしいので、「川」と混同する可能性は十分ある。しかも「広徳王」が「広川王」から変わっているから、なおさら混同されそうである。




「広宗」「広徳」というネーミングとの統一性を考えると、単なる一地名に見える「広川」よりも「広世(広卅)」の方がいかにも王莽のネーミングらしい、とも思う。





昔も同じような話をどこかで書いたかもしれないが。

公孫度の戦い

(初平元年)遼東太守公孫度自號爲平州牧、立漢世祖廟。
(『後漢紀』孝献皇帝紀第二十六)

遼東太守公孫度が漢の世祖廟を立てたのは、あの董卓が洛陽を破壊したという初平元年の事だったという。



という事は、公孫度としては「洛陽で事実上失われた皇帝廟を自分が復興して新たな漢の時代を作る」みたいなお題目で世祖廟を立てたという事なんだろうか?




穿った見方をすれば、軍事的に董卓と反董卓の争いに絡む事の出来ない公孫度は、祭祀や思想面で董卓や他の群雄たちをリードしようと考えたのかもしれない。

爵位の法則性

帝高(竇)融功、下詔以安豐・陽泉・蓼・安風四縣封融為安豐侯、弟友為顯親侯。遂以次封諸將帥。武鋒將軍竺曾為助義侯、武威太守梁統為成義侯、張掖太守史苞為襃義侯、金城太守厙鈞為輔義侯、酒泉太守辛肜為扶義侯。
(『後漢書』列伝第十三、竇融伝)

河西の竇融が後漢に臣従した後、竇融の元にいた太守たちは「助義侯」「成義侯」「襃義侯」「輔義侯」「扶義侯」といった爵位を賜ったという。


於是封者高為侯・伯、次為子・男、當賜爵關内侯者更名曰附城、凡數百人。撃西海者以「羌」為號、槐里以「武」為號、翟義以「虜」為號。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

以太傅・左輔・驃騎將軍安陽侯王舜為太師、封安新公。大司徒就徳侯平晏為太傅、就新公。少阿・羲和・京兆尹紅休侯劉歆為國師、嘉新公。廣漢梓潼哀章為國將、美新公。是為四輔、位上公。太保・後承承陽侯甄邯為大司馬、承新公。丕進侯王尋為大司徒、章新公。歩兵將軍成都侯王邑為大司空、隆新公。是為三公。大阿・右拂・大司空・衛將軍廣陽侯甄豐為更始將軍、廣新公。京兆王興為衛將軍、奉新公。輕車將軍成武侯孫建為立國將軍、成新公。京兆王盛為前將軍、崇新公。是為四將。凡十一公。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝中)

この爵位の名前について字を統一し、全て同じ法則性で命名するのは王莽の得意技だった。後漢になっても同じ傾向が続いているわけだ。




当時は色々なところでまだ王莽の影響が色濃かったのかもしれない。あるいは、王莽だけではなく、当時の官僚や学者たちに共通する流行だったのだろうか。