呉の太尉3

呉録曰、(范)慎字孝敬、廣陵人、竭忠知己之君、纏緜三益之友、時人榮之。著論二十篇、名曰矯非。後為侍中、出補武昌左部督、治軍整頓。孫晧移都、甚憚之、詔曰「慎勳徳倶茂、朕所敬憑、宜登上公、以副衆望。」以為太尉。慎自恨久為將、遂託老耄。軍士戀之、舉營為之隕涕。鳳凰三年卒、子耀嗣。
(『三国志』巻五十九、孫登伝注引『呉録』)


呉の太尉、先日の戴昌以外にも普通に確認できたわ・・・。



孫登の賓客だったという范慎は、孫晧の時に「太尉」に任命されいる。


呉録曰、羣臣上奏、共推(孫)峻為太尉、議(滕)胤為司徒。時有媚峻者、以為大統宜在公族、若滕胤為亞公、聲名素重、衆心所附、不可貳也。乃表以峻為丞相、又不置御史大夫、士人皆失望矣。
(『三国志』巻六十四、孫峻伝注引『呉録』)

また、孫峻も当初は「太尉」になる予定だったが、実際には丞相になった、という話が残っている。


孫晧以前にも、呉の宰相格として「太尉」の存在は意識されていたようだ(漢や魏で実際に使われていた三公の官なのだから当然か)。




結論。呉に「太尉」は普通にいた。