四王

(赤烏)五年春正月、立子(孫)和為太子、大赦、改禾興為嘉興。百官奏立皇后及四王、詔曰「今天下未定、民物勞瘁、且有功者或未録、饑寒者尚未恤、猥割土壤以豐子弟、崇爵位以寵妃妾、孤甚不取。其釋此議。」
・・・(中略)・・・
是歳大疫、有司又奏立后及諸王。八月、立子霸為魯王。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、赤烏五年)

孫権が皇太子孫和を立てた時、臣下は皇后と「四王」を立てるようにと上奏したそうな。



結局この年に王になったのはあの魯王孫覇だけだったが、「四王」ということは、臣下の上奏ではそれ以外にも3人の王を想定していたということになる。




後に王になっている孫休、孫奮と、あとは誰だろうか?*1


あるとすれば孫登の子だろうか?

*1:孫亮はまだ生まれてもいないはず。