劉信の母

羹頡
以高祖兄子從軍、撃反韓王信、為郎中將。信母嘗有罪高祖微時、太上憐之、故封為羹頡侯。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、羹頡侯劉信)

高祖劉邦の長兄の子、羹頡侯劉信。


彼も一応は従軍していたのか。



他の親族(劉邦の兄劉嘉や弟劉交)はもっと功績があったのかもしれんが、劉信も何もしなかったわけでもないのに冷遇されていたのだとしたら、確かに祖父である劉太公は可哀想になるだろう。




なお劉信は呂后の時代に罪があって列侯から関内侯に格下げされているのだが、昨日の陰安侯がこの劉信の母だとすると、息子で劉邦の血族である劉信は列侯ではないのに、劉邦と直接の因縁があった母の方だけは列侯だったという事になるな。



呂后末年頃に母が列侯として扱われていた理由を考えてみると、蕭何夫人の時のように「本来列侯であるべき後継ぎ(劉信)がアカンので、母がそれに代わるのだ」という一種の「本来皇帝であるべき後継ぎがアカンので母がそれに代わる」という呂后正当化の一環だったのかもしれないなあ。