参照先不明

哀帝時繼絶世、乃封敬王(劉)澤玄孫之孫無終公士歸生為營陵侯、更始中為兵所殺。
(『漢書』巻三十五、劉沢伝)

右孝哀十三人。新成・新都・平陽・營陵・徳五人隨父、凡十八人。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表)

前漢の燕王劉沢は3代目がとんでもないインセストタブー野郎だったために取り潰しとなったが、子孫が劉沢が最初に封建された営陵侯に復帰したという。


その子孫は当時の二十等爵の一番下の「公士」だったそうだから、本人の功績や能力のおかげではなく、純粋に功臣の国を復興してやろうという皇帝の思し召しだけで侯になったものである。




詳細について列侯のデータベースである『漢書外戚恩沢侯表では「随父」、父祖の侯の項目に書かれているという風に書かれているのだが、実は劉沢の営陵侯について記している『漢書』高恵高后文功臣表では、この劉沢の「玄孫之孫無終公士歸生」が侯とされたことが特に記載されていないように見える。



つまり、哀帝の時の営陵侯劉帰生については、いつ列侯になったのかといったことが書かれておらず、外戚恩沢侯表の表記はリンク切れになっているということらしい。