呂氏の武将


以連敖從高祖破秦、入漢、以都尉定諸侯、功比朝陽侯。嬰死、子它襲功、用太中大夫侯。   四 (呂后)四年四月丙申、侯呂它元年。
八年、侯它坐呂氏事誅、國除。
(『史記』巻十九、恵景間侯者年表、俞侯呂它)

この呂它なる人物の父の呂嬰は漢の高祖劉邦の元で戦ったが道半ばで死んだため、子が列侯になったのだそうだ。



だがその封建は呂后時代である事、呂后死後の陳平・周勃らのクーデターの時に誅された事などから考えると、彼もまた呂后の一族の可能性が高そうだ。


漢書』では他の呂氏は外戚恩沢侯表に載っているが、彼は功臣表に載っているため、呂氏の親族というコネではなく軍功で列侯になったという扱いらしい。




本当なら列侯になるほどの功績ではなかったが、呂后の一族であるという事で下駄はかせてもらったと言うところだろうか。



だとしても、呂后の一族の中にもこの呂嬰のように将として劉邦に従い続けた者もいた、という事にはなる。