孝惠二年、(蕭)何薨、諡曰文終侯。
子祿嗣、薨,無子。
高后乃封何夫人同為酇侯、小子延為筑陽侯。
孝文元年、罷同、更封延為酇侯。
(『漢書』巻三十九、蕭何伝)
『史記』の蕭相国世家や高祖功臣侯者年表には載っていない*1が、『漢書』蕭何伝や高恵高后文功臣表では、蕭何の子で爵位を継いだ蕭禄が死んだ時、蕭何夫人と蕭何の小子が侯となったとされている。
小子がいたならそいつに継がせればいいだけじゃないのかとしか思えないが、この措置は呂后時代に行われた事なので、「後継ぎとなるべき子が幼少なので、成長するまでは母が後を継ぐ」という、おそらくは呂后の立場と同じ状況を意図的に作り出し、「蕭何の家と同じように後継ぎとなるべき子が幼少なので、成長するまでは母が後を継いでいる」呂后の権力に正当性を持たせよう、という事だったのだろう。
呂后の権力に異を唱える事は功臣筆頭、初代丞相の蕭何に異を唱える事になるのだ、というわけだ。