孔丘先生の子孫、列侯になる

又曰「蓋聞王者必存二王之後、所以通三統也。昔成湯受命、列為三代、而祭祀廢絶。考求其後、莫正孔吉。其封吉為殷紹嘉侯。」
三月、進爵為公、及周承休侯皆為公、地各百里
(『漢書』巻十、成帝紀、綏和元年)

殷紹嘉侯孔何齊
以殷後孔子世吉適子侯、千六百七十戸、後六月進爵為公、地方百里、建平二年益戸九百三十二。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表)

前回の話にあったように、前漢成帝の時に「殷の湯王の子孫」として封建された孔丘先生の子孫は、『漢書』成帝紀では「孔吉」とされているが、『漢書外戚恩沢侯表では「孔何斉」とされている。



これはどういうことか。



孔何斉は「孔子世吉適子」つまり孔丘先生の子孫孔吉の嫡子ということだから、孔吉の子が孔何斉である。



ということは、「殷の湯王の子孫(孔丘先生の子孫)探し」で一番の適任とされたのは孔吉だが、何らかの事情で(たぶん死亡)実際に侯にする頃には侯に出来なくなっていて、その子の孔何斉が実際に侯になったのだろう。




封建される直前に死去したのだとすると、あの当時の天人相関説的に考えたら、「天は孔丘先生の子孫を殷王の子孫扱いする事におこ」みたいに解釈されなかったのだろうか。