『晋書』武帝紀を読んでみよう:その17

その16(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/08/000100)の続き。





秋七月、延羣公、詢讜言。
九月、有星孛于紫宮。
冬十月丙子、以汲郡太守王宏有政績、賜穀千斛。
十一月、追封諡皇弟兆為城陽哀王、以皇子景度嗣。
十二月、詔州郡舉勇猛秀異之才。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始5年後半。


王宏字正宗、高平人、魏侍中粲之從孫也。
魏時辟公府、累遷尚書郎、歴給事中。泰始初、為汲郡太守、撫百姓如家、耕桑樹藝、屋宇阡陌、莫不躬自教示、曲盡事宜、在郡有殊績。
司隸校尉石鑒上其政術、武帝下詔稱之曰「朕惟人食之急、而懼天時水旱之運、夙夜警戒、念在於農。雖詔書屢下、敕厲殷勤、猶恐百姓廢惰以損生植之功。而刺史・二千石・百里長吏未能盡勤、至使地有遺利而人有餘力、毎思聞監司糾舉能不、將行其賞罰、以明沮勸。今司隸校尉石鑒上汲郡太守王宏勤恤百姓、導化有方、督勸開荒五千餘頃、而熟田常課頃畝不減。比年普饑、人食不足、而宏郡界獨無匱乏、可謂能矣。其賜宏穀千斛、布告天下、咸使聞知。」
(『晋書』巻九十、良吏伝、王宏)

ここで褒め称えられた王宏は王粲の親族だった。



城陽哀王兆字千秋、年十歳而夭。
武帝踐阼、詔曰「亡弟千秋少聰慧、有夙成之質。不幸早亡、先帝・先后特所哀愍。先后欲紹立其後、而竟未遂、毎追遺意、情懷感傷。其以皇子景度為千秋後、雖非典禮、亦近世之所行、且以述先后本旨也。」於是追加兆封諡。景度以泰始六年薨、復以第五子憲繼哀王後。薨、復以第六子祗為東海王、繼哀王後。薨、咸寧初又封第十三子遐為清河王、以繼兆後。
(『晋書』巻三十八、城陽哀王兆伝)

城陽懷王景字景度、出繼叔父城陽哀王兆後。泰始五年受封、六年薨
(『晋書』巻六十四、城陽懐王景伝)

『晋書』列伝の記述を見る限りでは、今回城陽王を継いだ形となった皇子の「景度」は字で、名は「景」だという。「景度」は字というよりは幼名とかなのかもしれない。