漢の恵帝の真意

居數日、迺召孝惠帝觀人彘。孝惠見、問、迺知其戚夫人、迺大哭、因病、歳餘不能起。使人請太后曰「此非人所為。臣為太后子、終不能治天下。」孝惠以此日飲為淫樂、不聽政、故有病也。
二年、楚元王・齊悼惠王皆來朝。十月、孝惠與齊王燕飲太后前、孝惠以為齊王兄、置上坐、如家人之禮。太后怒、迺令酌両卮酖、置前、令齊王起為壽。齊王起、孝惠亦起、取卮欲倶為壽。太后迺恐、自起泛孝惠卮。齊王怪之、因不敢飲、詳醉去。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

漢の恵帝はかの「人彘」を見てショックで病んだ、みたいに語られるのだが、翌年に兄の斉王を毒殺から命がけで守ろうとしていたりして、単純にやる気を失ったとか、病気になったとかいう話ではないんじゃないか、という気がする。



これは恵帝による母の呂太后に対する一種の抗議というか抵抗と考えるべきなのかもしれない。



「皇帝である自分を無視して王やその母を殺したりするなら、自分はまともに政治を執る気はないし、何なら死んだっていいんだ」みたいな。拗ねているとも取れるが、当時の道徳的観点からすると実母に面と向かって反論はしにくいだろうから、このような形で母の非と自分の怒りを示した、とか。