壁外調査

三十二年、始皇之碣石、使燕人盧生求羨門・高誓。刻碣石門。壞城郭、決通隄防。
其辭曰、遂興師旅、誅戮無道、為逆滅息。武殄暴逆、文復無罪、庶心咸服。惠論功勞、賞及牛馬、恩肥土域。皇帝奮威、徳并諸侯、初一泰平。墮壞城郭、決通川防、夷去險阻。地勢既定、黎庶無繇、天下咸撫。男樂其疇、女修其業、事各有序。惠被諸産、久並來田、莫不安所。羣臣誦烈、請刻此石、垂著儀矩。
【注】
正義、墮音許規反。壞音怪。墮、毀也。壞、坼也。言始皇毀坼關東諸侯舊城郭也。夫自頹曰壞、音戸怪反。
(『史記』巻六、秦始皇本紀)

秦の始皇帝は関東の各城壁を破壊していた、という事なのだそうだ。




全域に渡っての事だったのか分からないが、秦末に項羽だったり劉邦だったりが一気に勢力を拡大していった理由には、各都市において城壁が役に立たず、籠城が困難になっていたから、というのがあったかもしれない(長期間籠城していたと思われる都市は破壊を免れていたのだろう)。