『史記』項羽本紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180815/1534259055)の続き。





項梁嘗有櫟陽逮、乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣、以故事得已。
項梁殺人、與(項)籍避仇於呉中。呉中賢士大夫皆出項梁下。毎呉中有大繇役及喪、項梁常為主辦、陰以兵法部勒賓客及子弟、以是知其能。
始皇帝游會稽、渡浙江、梁與籍倶觀。籍曰「彼可取而代也。」梁掩其口曰「毋妄言、族矣!」梁以此奇籍。籍長八尺餘、力能扛鼎、才氣過人、雖呉中子弟皆已憚籍矣。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項梁はかつて曹咎と司馬欣という秦の役人に助けてもらった事があった。この二人の名は後でまた出てくる。




また、項梁は項羽を連れて呉に逃げているわけだが、それは「項梁が人を殺したから」であり、例えば「項燕の子孫ということで追っ手がかかっていた」みたいな理由ではなかった事に注意。ここを読む限りでは、項梁・項羽は項燕の子孫だからといって秦に追われたりはしていないのだ。



呉に逃げたというのも、再起を図るとか秦による楚迫害を逃れるとかではなく、項梁が殺人罪で捕まる事や報復を受ける事から逃れるためだったようだ。





始皇帝が会稽方面へ行幸したのは始皇37年。陳勝らの挙兵の2年前の事である。



という事は、項羽はこの時22歳。まだ若いとはいえ、そろそろ蛮勇は控えて分別が付いてきて欲しい頃ではなかろうか。


ただ、項梁は大それた事を口にする項羽を見どころがあると思ったそうだ。乱が起こった時に有用であると考えたのだろうか。




なお、念のため言っておくとこの文中の「呉」とは会稽郡の呉県の事であろう。項羽たちは呉県で挙兵するのである。