『史記』項羽本紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180816/1534345629)の続き。






秦二世元年七月、陳渉等起大澤中。
其九月、會稽守通謂(項)梁曰「江西皆反、此亦天亡秦之時也。吾聞先即制人、後則為人所制。吾欲發兵、使公及桓楚將。」是時桓楚亡在澤中。梁曰「桓楚亡、人莫知其處、獨(項)籍知之耳。」梁乃出、誡籍持劍居外待。梁復入、與守坐曰「請召籍、使受命召桓楚。」守曰「諾。」梁召籍入。須臾、梁眴籍曰「可行矣!」於是籍遂拔劍斬守頭。項梁持守頭、佩其印綬。門下大驚、擾亂、籍所撃殺數十百人。一府中皆慴伏、莫敢起。梁乃召故所知豪吏、諭以所為起大事、遂舉呉中兵。使人收下縣、得精兵八千人。梁部署呉中豪傑為校尉・候・司馬。有一人不得用、自言於梁。梁曰「前時某喪使公主某事、不能辦、以此不任用公。」衆乃皆伏。於是梁為會稽守、籍為裨將、徇下縣。
(『史記』巻七、項羽本紀)

秦の二世皇帝2年9月、項梁挙兵。




なお、劉邦の挙兵も同時期であるらしい。




会稽郡守や反抗する者を殺して黙らせたのが項羽であった。




よくよく挙兵の様子を見ると、会稽郡守自身も秦に背こうとしていたが、項梁に騙し討ちに遭ったという形のようだ。



また、項梁は郡守からあたかも軍事アドバイザーか何かであったかのように扱われているようにも見え、項梁はこの時点では特にお尋ね者などではなかったのではないかと思われる。




項梁が支配下に置いた兵は8千人だという。劉邦が沛公になって得た兵が2、3千人だそうだから、項梁の勢力が最初から割と大きかった事が分かる。