『史記』陳渉世家を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180802/1533136233)の続き。





陳王故涓人將軍呂臣為倉頭軍、起新陽、攻陳下之、殺莊賈、復以陳為楚。
初、陳王至陳、令銍人宋留將兵定南陽、入武關。留已徇南陽、聞陳王死、南陽復為秦。宋留不能入武關、乃東至新蔡、遇秦軍、宋留以軍降秦。秦傳留至咸陽、車裂留以徇。
秦嘉等聞陳王軍破出走、乃立景駒為楚王、引兵之方與、欲撃秦軍定陶下。使公孫慶使齊王、欲與并力倶進。齊王曰「聞陳王戰敗、不知其死生、楚安得不請而立王!」公孫慶曰「齊不請楚而立王、楚何故請齊而立王!且楚首事、當令於天下。」田儋誅殺公孫慶。
秦左右校復攻陳、下之。呂將軍走、收兵復聚。
鄱盜當陽君黥布之兵相收、復撃秦左右校、破之青波、復以陳為楚。會項梁立懷王孫心為楚王。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

陳勝は死んだが、その下にいた呂臣が弔いの軍を挙げて仇を討った。



また、陳勝は周章に函谷関超えを命じたのみならず、宋留なる人物には南陽郡経由での武関超えを命じていたらしい。



これ、劉邦の秦攻めのルートではないか。


後に楚の懐王が宋義と劉邦をそれぞれ派遣したように、陳勝も複数のルートで秦を攻めていたのだろう。




後の劉邦の秦攻めは、楚から見ると宋留のリベンジだったのかもしれない。



陽信胡侯呂青
以漢五年用令尹初從、功比堂邑侯、千戸。
・・・(中略)・・・
孝惠四年、頃侯臣嗣、十八年薨。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表)


ちなみに、呂臣は楚の懐王の元で司徒となり、呂臣の父呂青(令尹)と共に楚の懐王の重鎮であったようだが、最終的には漢に与して列侯(陽新侯)になっている。