『史記』陳渉世家を読んでみよう:その13

その12(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180804/1533308637)の続き。





陳勝王凡六月。已為王、王陳。
其故人嘗與庸耕者聞之、之陳、扣宮門曰「吾欲見渉。」宮門令欲縛之。自辯數、乃置、不肯為通。陳王出、遮道而呼渉。陳王聞之、乃召見、載與倶歸。入宮、見殿屋帷帳、客曰「夥頤!渉之為王沈沈者!」楚人謂多為夥、故天下傳之、夥渉為王、由陳渉始。客出入愈益發舒、言陳王故情。或説陳王曰「客愚無知、顓妄言、輕威。」陳王斬之。諸陳王故人皆自引去、由是無親陳王者。
陳王以朱房為中正、胡武為司過、主司羣臣。諸將徇地、至、令之不是者、繫而罪之、以苛察為忠。其所不善者、弗下吏、輒自治之。陳王信用之。諸將以其故不親附、此其所以敗也。
陳勝雖已死、其所置遣侯王將相竟亡秦、由渉首事也。高祖時為陳渉置守冢三十家碭、至今血食。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)


陳勝に関する総括。


陳渉少時、嘗與人傭耕、輟耕之壟上、悵恨久之、曰「苟富貴、無相忘。」庸者笑而應曰「若為庸耕、何富貴也?」陳渉太息曰「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉!」
(『史記』巻四十八、陳渉世家)


陳勝に会いに来た知人というのは、この世家冒頭で陳勝がビッグな志を語った相手の事だろう。



陳勝も一応はその相手の事を忘れていなかったようだが、最終的にはこういった者を近づける事が王の威厳を損なうという進言を容れてその知人を殺してしまったが、そのために陳勝は知人たちの協力を得られなかったのだという。



また、陳勝の諸将への監視体制についての問題も指摘されているが、これはほぼ徒手空拳から王になり、信頼できる部下も父祖から受け継いだ財産も無い王としては、多くの者に言う事を聞かせるために知恵を絞った結果という事でもあるのだと思う。





6か月しか王でいられなかったとも言えるが、これはむしろ「ほんの6か月でとてつもない事を成し遂げた」と評するべきなのだろう。


劉邦項羽らによる秦打倒も、陳勝が始めていた事の焼き直しと見えるわけだから。