宦官と皇帝

孝武鉤弋趙祜礱、昭帝母也、家在河間。
武帝巡狩過河間、望氣者言此有奇女、天子亟使使召之。既至、女両手皆拳、上自披之、手即時伸。由是得幸、號曰拳夫人。
先是其父坐法宮刑、為中黄門、死長安、葬雍門。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝武鉤弋趙祜礱)

武帝の末子で次の皇帝となった昭帝の母の父(外祖父)は、宦官であったという。





その次に皇帝となった(なお直ぐに廃位)昌邑王の祖母は武帝の寵姫李夫人であるが、この李夫人の兄の李延年は宦官であった





孝宣許皇后、元帝母也。父廣漢、昌邑人、少時為昌邑王郎。從武帝上甘泉、誤取它郎鞍以被其馬、發覺、吏劾從行而盜、當死、有詔募下蠶室。後為宦者丞。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后)


その次に皇帝となった宣帝の皇后許皇后(元帝の母)の父は宦官であった。





前漢の皇帝は四代連続して祖父、大伯父、岳父、祖父と近親に宦官がいたことになる(武帝と趙氏の父の関係も入れると五代か)。