『漢書』武帝紀を読んでみよう:その13

その12(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171210/1512831736)の続き。





元狩元年冬十月、行幸雍、祠五畤。獲白麟、作白麟之歌。
十一月、淮南王安・衡山王賜謀反、誅。黨與死者數萬人。
十二月、大雨雪、民凍死。
夏四月、赦天下。
丁卯、立皇太子。賜中二千石爵右庶長、民為父後者一級。
詔曰「朕聞咎繇對禹、曰在知人、知人則哲、惟帝難之。蓋君者心也、民猶支體、支體傷則心憯怛。日者淮南・衡山修文學、流貨賂、両國接壤、怵於邪説、而造簒弒、此朕之不徳。詩云『憂心慘慘、念國之為虐。』已赦天下、滌除與之更始。朕嘉孝弟力田、哀夫老眊孤寡鰥獨或匱於衣食、甚憐愍焉。其遣謁者巡行天下、存問致賜。曰『皇帝使謁者賜縣三老・孝者帛、人五匹。郷三老・弟者・力田帛、人三匹。年九十以上及鰥寡孤獨帛、人二匹、絮三斤。八十以上米、人三石。有冤失職、使者以聞。縣郷即賜、毋贅聚』。」
五月乙巳晦、日有蝕之。
匈奴入上谷、殺數百人
(『漢書』巻六、武帝紀)

元狩元年。



「麟」とは聖王の存在に呼応して出現するクリーチャーだそうだ。だから武帝はこのクリーチャー捕獲を特別な出来事と扱ったのである。





淮南王安・衡山王賜とはどちらも漢の高祖劉邦の子である淮南王劉長の子。



劉長が終わりを良くしなかった事もあり、淮南王安らも含むところがあったようで、呉楚七国の乱でも実は呉に付こうとしていたと言われ、反乱を企てたという罪を摘発されたのである。





ここで立てられた皇太子は衛子夫の産んだ男子、劉拠。彼を待ち受ける運命については、いずれ出てくるだろう。