『漢書』武帝紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171121/1511190610)の続き。




建元元年冬十月、詔丞相・御史・列侯・中二千石・二千石・諸侯相舉賢良方正直言極諫之士。
丞相綰奏「所舉賢良、或治申・商・韓非・蘇秦張儀之言、亂國政、請皆罷。」奏可。
春二月、赦天下、賜民爵一級。年八十復二算、九十復甲卒。
行三銖錢。
夏四月己巳、詔曰「古之立教、郷里以齒、朝廷以爵、扶世導民、莫善於徳。然則於郷里先耆艾、奉高年、古之道也。今天下孝子順孫願自竭盡以承其親、外迫公事、内乏資財、是以孝心闕焉。朕甚哀之。民年九十以上、已有受鬻法、為復子若孫、令得身帥妻妾遂其供養之事。」
五月、詔曰「河海潤千里、其令祠官修山川之祠、為歳事、曲加禮。」
赦呉楚七國帑輸在官者。
秋七月、詔曰「衛士轉置送迎二萬人、其省萬人。罷苑馬、以賜貧民。」
議立明堂。遣使者安車蒲輪、束帛加璧、徴魯申公。
(『漢書』巻六、武帝紀)


武帝は即位してすぐに幾つかの政策に手を付けた。



高齢者への恩典や、呉楚七国の乱で官奴婢とされていた者への恩赦など、民を労わる方向である。



また、「明堂」とかいう後に王莽によって完成する施設を作ろうと試み、申公なる人物を呼び寄せた。



この魯の申公とは高祖劉邦の弟である楚王劉交と共に『詩経』を学んだという学者であった。


蘭陵王臧既從受詩、已通、事景帝為太子少傅、免去。
武帝初即位、臧乃上書宿衛、累遷、一歳至郎中令。
及代趙綰亦嘗受詩申公、為御史大夫
綰・臧請立明堂以朝諸侯、不能就其事、乃言師申公。於是上使使束帛加璧、安車以蒲裹輪、駕駟迎申公弟子両人乗軺傳從。至、見上、上問治亂之事。申公時已八十餘、老、對曰「為治者不在多言、顧力行何如耳。」是時上方好文辭、見申公對、默然。
然已招致、既以為太中大夫、舍魯邸、議明堂事。
(『漢書』巻八十八、儒林伝、申公)

この武帝の政策はどうやら蘭陵の王臧、代の趙綰という二人の儒者によって進められていたらしい。王臧はかつて皇太子時代の武帝の太子少傅であった、つまり教育役であった。



武帝のこの時の方針は彼ら、特に王臧の影響が強かったのではないかと思われる。