司馬遷の書を読んでみよう12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160623/1466610139)の続き。



夫人情莫不貪生惡死、念親戚、顧妻子。至激於義理者不然、乃有不得已也。今僕不幸、蚤失二親、無兄弟之親、獨身孤立、少卿視僕於妻子何如哉?且勇者不必死節、怯夫慕義、何處不勉焉!僕雖怯耎欲苟活、亦頗識去就之分矣、何至自湛溺累紲之辱哉!且夫臧獲婢妾猶能引決、況若僕之不得已乎!所以隠忍苟活、函糞土之中而不辭者、恨私心有所不盡、鄙沒世而文采不表於後也。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

だいたい、人間の情として何としても生きようとして死ぬのを嫌がり、親族や妻子の事を気にするのが普通である。義理を激しく重んじる人間であれば生や家族を顧みないが、それでもやむを得えずできないこともあるものだ。


今、僕は不幸にして両親を早くに失い、兄弟も無く孤立している。少卿は僕が妻子をどう考えていると思う?



また、勇敢な者であっても節のために死ぬとは限らず、臆病な者でも義を慕うことはある。皆励み努めなければいけない。


僕は軟弱者でとにかく生きたいと思っているとはいえ、それでも士大夫の去就をいかにすべきかは理解している。どうして宮刑を受ける辱めを受けたいと思うだろうか。隷民でさえも自決することがあるのに、まして僕がそれをできないなどということがあるだろうか。


僕が恥を忍んで生き恥をさらしているのは、自分の心に満足できないでいたことがあり、文章が世に埋もれてしまうことが嫌だったからなのだ。




司馬遷はどうやら自分は義理のためには妻子を捨てても死ぬ覚悟がある人間なのだ、と言いたいようだ。



だが、それは宮刑を受けてまで生きることを選んだ自分の生きざまと矛盾する。




それについて、「心残りがあったからなのだ」と述べる。



つまり、『史記』を完成させるためなのだ、ということである。




まあ、その辺の事は分かっている人も多いことだろう。




つまり司馬遷が任安に言いたいのは、「まともな士大夫なら、獄に入れられる位なら死を選ぶよね。俺は『史記』完成という目的があったから仕方なく生きる方を選んだけど。で、君は?」という、獄中の知人に対して言うには割とエグイ内容だったことになるのではないだろうか。