司馬遷の書を読んでみよう10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160621/1466435971)の続き。



人固有一死、死有重於泰山、或輕於鴻毛、用之所趨異也。
太上不辱先、其次不辱身、其次不辱理色、其次不辱辭令、其次詘體受辱、其次易服受辱、其次關木索被箠楚受辱、其次鬄毛髮嬰金鐵受辱、其次毀肌膚斷支體受辱、最下腐刑、極矣。
傳曰「刑不上大夫」、此言士節不可不窅也。猛虎處深山、百獸震恐、及其在穽檻之中、搖尾而求食、積威約之漸也。
故士有畫地為牢勢不入、削木為吏議不對、定計於鮮也。今交手足、受木索、暴肌膚、受榜箠、幽於圜牆之中、當此之時、見獄吏則頭槍地、視徒隸則心綃息。何者?積威約之勢也。
及已至此、言不辱者、所謂彊顔耳。曷足貴乎!
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

人間はみな死ぬが、死にも泰山よりも重みのある死と、鳥の羽根より軽い死がある。それはそれぞれの向かうところが違うためである。


死の中でも一番は先祖を辱めないことであり、その次は自分の体を辱めないことであり、その次は見た目を辱めないことであり、その次は発言を辱めないことであり、その次は体を屈する辱めを受けることであり、その次は囚人服に着替える辱めを受けることであり、その次は柵で囲われて鞭打たれる辱めを受けることであり、その次は毛髪を金属で束ねられる辱めを受けることであり、その次は皮膚を損ない手足を絶たれる辱めを受けることであり、最も悪いものが宮刑である。


古の言葉に「刑は大夫には適用しない」とあるが、これは士としての節義を守ることに対して厳格であることを言うのである。


猛虎は自然におれば野の獣たちも恐れる猛獣だが、捕まって檻で飼育されれば、しっぽを振って餌を求めるようになる。飼い主の威厳によってそうなるのである。


故に、士たるものは地面に線を書いて牢屋ということにすればそこには入ろうとせず、木を削って作った取調官に対しても本物に対するのと同じように回答しない。士であれば獄に入ったり取り調べを受けたりする時には先に自決して辱めを受けないようにするものと決まっているからだ。


手足を拘束され、柵で囲われ、素肌を晒し、鞭打ちを受け、牢獄に捕らわれたとすれば、獄吏を見ると土下座し、獄吏に従う隷民を見ても恐れのあまり溜息をつくものだ。これもまた、猛虎と同じで獄吏の威厳によってそうなってしまうのである。


こうなってしまってから「自分は辱めを受けていない」などと言ったところで、それは厚かましい物言いというものでしかない。どうして貴ぶことができようか。



かの有名な「死有重於泰山、或輕於鴻毛」である。




つまるところ、恥を知る士としては牢獄に繋がれて取り調べ(拷問)を受けるという辱めを受けるくらいなら、拘束されるより先に自決するという誇りある死を選ぶべきである、というのが司馬遷の主張である。



確かにこの時代、罪があるとされた大臣などが自殺するということがよく見られた。





そして、よく考えてみると司馬遷が手紙を出した相手である任安も処刑を待つ身ということは獄に入れられていると思われるわけである。



司馬遷の言葉は、任安に対しては「え?なんで立派な士大夫なのに獄に入れられてるの?まだ自殺してないの?」という煽りとして機能していた、のかもしれない。