漢の成帝の微行

漢成帝好微行・・・(中略)・・・造飛行殿、方一丈、如今之輦、選羽林之士、負之以趨。帝於輦上、覺其行快疾、聞其中若風雷之聲、言其行疾也、名曰雲雷宮。所幸之宮、咸以氈綈地、惡車轍馬跡之喧。雖惑於微行昵宴、在民無勞無怨。毎乗輿返駕、以愛幸之姫寶衣珍食、捨於道傍、國人之窮老者皆歌萬歳。是以鴻嘉・永始之間、國富家豐、兵戈長戢。
(王嘉『拾遺記』)


前漢の成帝は皇帝のいるべき宮殿を離れて城下に出る「微行」(お忍び)を好んだという*1




その際の移動手段として「飛行殿」というものを作った。神輿のように人力で運ばせるものだったようだが、音速の壁を超えた音がしたので「雲雷宮」と呼んだのだとか(一部誇張)。



また、行幸の際にはそこに全て絨毯を敷き詰め、馬車の車輪や馬の蹄跡さえも残さないようにしたという。



そんな感じだったから民は微行によって困ることが特になかったのだ、とされている*2




そして、帰る時には同行する妻妾の身に着ける豪華な衣服や装飾品、あるいは贅を尽くした食事を全て捨てていったので、それを拾う貧民たちが万歳を連呼したという。






こんなことを本気でやっていたのだとすればとてつもない浪費であったと思われるが、その一方で皇室の財産を民間に還元する、一種の景気対策・貧民対策であったと考えることもできないこともない。



また、こういった形で「皇帝の恩沢」を下々の者にまで知らしめることで皇帝の恩と威をアピールするという目的があった、という可能性もあるかもしれない。






*1:漢の皇帝は何故か伝統的に「微行」が大好きである。

*2:無論、『漢書』等が記すところでは政治の失策で国が乱れていた時代であったと評されているので、これを素直に信じることは難しいところであるが、微行が直接に民を苦しめないよう心掛けられていたとしても矛盾は無いだろう。