みんなでつなげよう張氏の輪

ツイッターにて@a_mim_様より大変興味あることを教えていただいたので、確認がてら紹介してみる。



張氏出自姫姓。黄帝子少昊青陽氏第五子揮為弓正、始制弓矢、子孫賜姓張氏。
周宣王時有卿士張仲、其後裔事晉為大夫。張侯生老、老生趯、趯生骼。至三卿分晉、張氏仕韓。韓相張開地、生平、凡相五君。平生良、字子房、漢留文成侯。良生不疑。不疑生典。典生默。默生大司馬金。金生陽陵公乗千秋、字萬雅。千秋生嵩。
嵩五子、壮・瓚・彭・睦・述。壮生胤。胤生皓、字叔明、後漢司空、世居武陽犍為。皓生宇、北平・范陽太守、避地居方城。宇孫肥如侯孟成。孟成生平、魏漁陽郡守。平生華、字茂先、晉司空・壮武公。二子、禕・韙。禕字彦仲、散騎侍郎。生輿、字公安、太子舍人、襲壮武公。生次惠、宋濮陽太守。二子、穆之・安之。安之之族、徙居襄陽。
(『新唐書』巻七十二下、宰相世系表二下、張氏)


新唐書』宰相世系表*1の言うところでは、張氏のルーツのひとつとしてかの張良の系統を挙げており、そこから後漢の司空であった犍為の張皓と、かの有名な晋の張華が出たというのである。



張華字茂先、范陽方城人也。父平、魏漁陽郡守。
(『晋書』巻三十六、張華伝)

で、その張華は本貫が「范陽郡方城県」なわけだが、この郡名は晋代以降のものである。では後漢から魏にかけては方城県はどの郡に属していたかというと・・・。


涿郡。高帝置。雒陽東北千八百里。七城、戸十萬二千二百一十八、口六十三萬三千七百五十四。
涿
迺、侯國。故安易水出、雹水出。
范陽、侯國。
良郷

新城、有汾水門。
方城、故屬廣陽。有臨郷。有督亢亭。
(『続漢書』志第二十三、郡国志五、幽州)


涿郡である。つまり張華は本来「涿郡の張氏」であったのだ。




あれ?後漢末に「涿郡の張氏」でなんか超有名な人がいたような・・・?




*1:一応言っとくと宰相世系表そのものの信頼性についてはノーコメント。