扶風王劉禅の波紋

(訒)艾言司馬文王曰・・・(中略)・・・以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣、以顯歸命之寵。開廣陵・城陽以待呉人、則畏威懐徳、望風而從矣。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)


この昨日の記事の再掲であるが、良く考えたらこの献策はなかなかチャレンジャーだな、政治的な意味で。





黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙、封公之四子為列侯。
(『三国志』巻二、文帝紀


この時、魏に帝位を禅譲した漢の献帝の子孫は「山陽公」であった。




もし、劉禅が「扶風王」になったら、爵位上は元蜀漢の皇帝の方が後漢皇帝の末裔よりも上という、一種の逆転現象を引き起こすことになるのではないか。






これ、そのまま実現したら魏王朝自体の正統性だとか、ひいてはいずれ魏王朝から禅譲受ける予定だったであろう晋の正統性だとか、そういったことに一点集中の強力な波紋を投げかけることになったんちゃうか?



そら(周囲みんな落ち着けって言うし)そう(最後は檻に入れてドナドナも仕方ない)よ。





魏(晋)側にまで誘爆しかねない爆弾(かもしれないわけ)やからね。