六代論の作者

魏氏春秋載宗室曹冏上書曰・・・(中略)・・・」冏、中常侍兄叔興之後、少帝族祖也。是時天子幼稚、冏冀以此論感悟曹爽、爽不能納。
(『三国志』巻二十、広平哀王儼伝注)

三国魏の曹氏の一族に曹冏という人物がいた。



彼は曹爽に対し「六代論」と呼ばれる長大な論を献じた。




それまでの王朝の興亡を記して宗室にもっと権限を与えるべしという内容のようであるが、ここでは中身は問題ではないので省略する。





帝嘗閲六代論、問(曹)志曰「是卿先王所作邪?」志對曰「先王有手所作目録、請歸尋按。」還奏曰「按録無此。」帝曰「誰作?」志曰「以臣所聞、是臣族父冏所作。以先王文高名著、欲令書傳于後、是以假託。」帝曰「古來亦多有是。」顧謂公卿曰「父子證明、足以為審。自今已後、可無復疑。」
(『晋書』巻五十、曹志伝)

晋の世になって、曹植の子の曹志はあるとき皇帝からその「六代論」について質問を受けた。



「これはお前の父王(曹植)の作ではないのか?」



曹志はそれに対し、「父王自ら作った目録がありますので、家に帰って確認してまいります」と答え、確認して帰ってきた。



「目録にはありませんでした」と報告した曹志に、皇帝は「では誰の作だ?」と訊く。



曹志は「私の聞いたところでは、私の族父、曹冏の作です。高名な父王にあやかって書を後世に残そうとして仮託したのではありますまいか」と答えた。



皇帝は「古来からその手のことは多くあるのだなあ」と言い、「子が証明したのであるから、このことについてはこれ以上は疑うことはないぞ」と大臣たちに告げたという。






どうやら、晋の宮廷ではその「六代論」の作者が曹植であると言われていたらしい。




曹冏が意図的に名を騙ったものなのか、内容から曹植作に違いないと誤解されたものなのかはわからないが、曹植のようなビッグネームの作だという事にしておいた方が残りやすかったというのはきっとその通りなのだろう。