陳矯と劉曄

世語曰、劉曄以先進見幸、因譖(陳)矯專權。矯懼、以問長子本、本不知所出。次子騫曰「主上明聖、大人大臣、今若不合、不過不作公耳。」後數日、帝見矯、矯又問二子、騫曰「陛下意解、故見大人也。」既入、盡日、帝曰「劉曄構君、朕有以迹君、朕心故已了。」以金五鉼授之、矯辭。帝曰「豈以為小惠?君已知朕心、顧君妻子未知故也。」
(『三国志』巻二十二、陳矯伝注引『世語』)

明帝の時、明帝に重用された劉曄が陳矯を讒言した、という話があったらしい。



陳矯は恐れおののくばかりであったが次男陳騫が「主上は聡明な方ですし主上と合わなくても公になれないくらいのことではないですか」などとなだめてやったという。




劉曄は明帝に食言を嫌われたという話も残っているが、もしかしたら讒言のあとで劉曄が失脚したのかもしれない。