漢の漢たちを語る7「西域の姫君」:楚主解憂

漢代の西域に、「烏孫」と呼ばれる民がいた。


現代のキルギスにいた連中、青い目と赤いヒゲが特徴だそうだ。



烏孫匈奴と似た習俗で、当初は匈奴の傘下にいたが次第に強勢となり、やがて大月氏キルギスから追い出して烏孫がそこに居付くようになった。



漢の武帝の時に張騫が持ち帰った情報から、対匈奴戦略の一環として烏孫を手懐けるという方針が決まり、烏孫接触を図った。
そして烏孫が求めたことから、公主すなわち姫君を嫁にやることにした。


そこで選ばれたのが謀反の罪があって取りつぶされた諸侯王、江都王建の娘。

彼女は「公主」ということにされ、慣れない異郷の地で言葉も通じない老王の嫁となっていった。

更に、匈奴にもある習俗から老王は自分の後継者である孫と彼女の結婚を求め、漢もそれに同意したことから、彼女は最初の夫の孫と結婚したのだった。





話はその江都公主が死去した頃から始まる。

公主死、漢復以楚王戊之孫解憂為公主、妻岑陬。岑陬胡婦子泥靡尚小、岑陬且死、以國與季父大祿子翁歸靡、曰「泥靡大、以國歸之。」
翁歸靡既立、號肥王、復尚楚主解憂、生三男兩女。長男曰元貴靡。次曰萬年、為莎車王。次曰大樂、為左大將。長女弟史為龜茲王絳賓妻。小女素光為若呼翎侯妻。
(『漢書』巻九十六下、西域伝下)


江都公主が死んでしまうと、漢は別の「公主」を烏孫に派遣した。


それが「楚主解憂」である。呉楚七国の乱で反乱した楚王戊の孫である。
楚の公主だから「楚主」ということだ。
こういった立場の女性が西域に派遣される「公主」となるのだ。


彼女はそれまで江都公主を娶っていた当時の王「岑陬」に嫁いだ。

岑陬が死ぬと、その従兄弟の「翁帰靡」が王となり、公主は彼と再婚した。



なぜ従兄弟が後を継ぐかというと、それまでの烏孫で「太子の子」岑陬と「次男」の間で跡目争いが起きており、ほとんど国を二分する事態となっていたのである。

翁帰靡こそ、その「次男」の子であった。


翁帰靡は公主を娶ることで漢の権威を即位の正当性担保に利用したのかもしれない。




時代が少し下って昭帝の末期、匈奴烏孫へ攻め込もうとしていた。

公主は漢に対して派兵を求め、皇帝が代替わりし宣帝が即位するとその求めに応じて匈奴に対して15万という大兵力を送り込み、同時に常恵を烏孫に派遣して烏孫の兵を監督させた。

常恵の統率の元で烏孫の兵は匈奴を破り、大量の鹵獲品を得たのであった。


これはある意味重大な契機であったと思われる。



これまで宗主国のような存在であった匈奴の攻撃を漢の指揮下で打ち破ったからである。


烏孫全体が完全に親匈奴から親漢にチェンジしたということだ。


と同時に、この勝利は漢の派兵により匈奴が戦力集中できなくなったためと思われるため、派兵を求めた公主の存在感が増したことも意味したと思われる。



初、楚主侍者馮嫽能史書、習事、嘗持漢節為公主使、行賞賜於城郭諸國、敬信之、號曰馮夫人。
(『漢書』巻九十六下、西域伝下)


どうやら、楚主解憂は自らの名のもとに使者を出して西域諸国に恩賞を与えていたらしい。

おそらく、西域においては公主自身が漢皇帝の代理人のような存在になっていたのだろう。


彼女は単に烏孫王の妃というだけではなく、近隣諸国にまで影響を及ぼしうる存在だったのだ。



その後、デブ王と呼ばれた翁帰靡が死に、今度は先代岑陬の子である「泥靡」が王に推された。

もちろん公主はまた泥靡と結婚した。



この泥靡はキチ王と呼ばれたそうだ。

このキチ王は母が匈奴人だったので、漢人と親漢派に敵対的だったことから言われたのかもしれない。
そんなわけで、彼は公主とも折り合いが悪かった。

使衛司馬魏和意・副候任昌送侍子、公主言狂王為烏孫所患苦、易誅也。遂謀置酒會、罷、使士拔劍撃之。劍旁下、狂王傷、上馬馳去。
其子細沈瘦、會兵圍和意・昌及公主於赤谷城。數月、都護鄭吉發諸國兵救之、乃解去。
漢遣中郎將張遵持醫藥治狂王、賜金二十斤・采虵。
因收和意・昌係瑣、從尉犂檻車至長安、斬之。
車騎將軍長史張翁留驗公主與使者謀殺狂王状、主不服、叩頭謝、張翁捽主頭罵詈。主上書、翁還、坐死。
副使季都別將醫養視狂王、狂王從十餘騎送之。都還、坐知狂王當誅、見便不發、下蠶室。
(『漢書』巻九十六下、西域伝下)


そこで公主がどうしたかというと、なんと漢からの使者と共謀してそのキチ王暗殺を試みた。

なかなかの女傑ではないか。


その暗殺は失敗し、キチ王懐柔を図る漢は暗殺計画に加担した使者を処刑し、公主のことも厳しく取り調べた。


だが公主が皇帝に上書し訴えると逆に取り調べた者が宮刑にされ、キチ王を見舞った使者は「暗殺できたのにしなかった」という罪状で処刑されたというから、公主の判断は皇帝によって認められたのだ。


暗殺失敗により混迷を極めた烏孫は漢の介入によって一応の決着が図られ、翁帰靡と公主の子である「元貴靡」と、翁帰靡と匈奴人の子である「烏就屠」の王を二人立てることとなった。
キチ王をいち早く殺して乱を収めようとした公主の判断は正しかったのかもしれない。



元貴靡・鴟靡皆病死、公主上書言年老土思、願得歸骸骨、葬漢地。天子閔而迎之、公主與烏孫男女三人倶來至京師。是歳、甘露三年也。時年且七十、賜以公主田宅奴婢、奉養甚厚、朝見儀比公主。後二歳卒、三孫因留守墳墓云。
(『漢書』巻九十六下、西域伝下)


そんな女傑も故郷を懐かしむ思いは抑えがたかったらしい。

老年の彼女は漢に戻ることを望み、皇帝もそれを認めて本物の公主と同じ扱いをしてやったという。



反乱した王の孫は、数奇な運命の果てに本物の「姫君」に出世したのだった。