周昭と韋曜

周昭者字恭遠、與韋曜・薛瑩・華覈並述吳書、後為中書郎、坐事下獄、覈表救之、孫休不聽、遂伏法云。
(『三国志』歩闡伝)

曜本名昭、史為晉諱、改之。
(『三国志』韋曜伝注)


上の文中、周昭と韋曜の名が連記されている。
韋曜は一般には「韋昭」が本名だったが晋の司馬昭の諱と被るので変えたのだとされるが、同じ文中で同じ「昭」の字を使っているのに周昭はそのままで韋昭は避諱していたことになる。



もちろん「韋曜が元々の名だったのではないか」という可能性もある。


また、韋曜伝注の説明が適切ではない可能性もある。

思うに周昭は孫休時代に死んでおり、一方で韋曜は孫晧時代まで生きている。
孫晧時代と魏が滅び晋の時代になるのはほぼ重なる。
孫晧時代、呉は晋にしばしば使者を送るなど、表向き友好的にすることがあった。

周昭が生きていた頃はまだ司馬昭の諱を気にする必要はなかったが、孫晧時代になると晋と友好的にする関係上、高官が司馬昭の諱を避けていないのは問題があったと考えられる。
つまり、韋曜は元々「韋昭」という名であったが、晋との関係上で自ら改名する必要に迫られて「韋曜」と名乗るようになったのではないだろうか。

これが仮に正しいとすれば、「史為晉諱、改之」という『三国志』注の説明は妥当ではない。改名したのは「史」ではなく「韋昭本人」ということになるからだ。

「史」が後から改名したのだとすれば、同じ文中で周昭の方は避けないのは不自然である。