プロローグ

孫休永安五年二月、城西門北樓災。六年十月、石頭小城火、燒西南百八十丈。
是時嬖人張布專擅國勢、多行無禮、而韋昭・盛沖終斥不用、兼遣察戰等為内史、驚擾州郡、致使交阯反亂、是其咎也。
(『晋書』巻二十七、五行志上、火)

呉の孫休の時、張布が政治を壟断したり察戦が州郡を乱したりした、とされているのか。



呉における政治問題は孫晧の前の代から続いていたと言うべきなのか?




孫休の子が帝位を継げずに孫晧になったのも、子の年齢(30歳で死んだ孫休の子なので)もさることながら、孫休自身が問題ある皇帝だったという認識があったから?